松平健が演じてる武田信玄のモデルって…


ホンモノの方じゃなくて…


別人(畠山義続)の方だよね。w


「おんな城主 直虎」って、いろいろ残念なところが多いんだけど、これもその一つだよな。

「このハゲー!」って、どっかの誰かさんが言いだしそうなハゲデブ偽信玄。wwwww

2017.09.21 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |



小野政次(道好)善人説と引き換えに、近藤康用悪人説ですか?

 NHKの大河ドラマ「おんな城主 直虎」第33回「嫌われ政次の一生」で、高橋一生演じる小野政次がついに最期を迎えた。しかも、処刑場で磔(はりつけ)にされた政次を、長槍で刺しとどめを刺すのは、ほかならぬ井伊直虎(柴咲コウ)。裏切り者としての「小野の本懐」をまっとうさせるため、誰よりも深く政次を理解する直虎自らの決断だった。岡本幸江プロデューサーに、政次最期のシーンに込めた思いを聞いた。

政次死す! 「おんな城主 直虎」岡本プロデューサーが語る“衝撃の最期”の真相

近藤康用とは、井伊谷三人衆の一人で、橋本じゅん氏が演じている。龍雲丸(柳楽優弥)率いる盗賊(龍雲党)に材木を盗まれて怒ってた人って言えばわかるだろう。そのときから井伊氏に遺恨があるようで、それを晴らすために政次を陥れたことになっている。



政次奸臣説は『井伊家家伝』が元になっている(直虎=次郎法師=女性説も)。ところが、資料提供した夏目琢史氏と時代考証の大石泰史氏が、『井伊家家伝』は江戸時代に書かれたので、徳川氏・井伊氏を批判できないから、小野政次が悪人だったことにしているのだという。この説をもとに脚本を書いたようだが、政次のような一般にあまり知られていない人物に対して、通説とは異なる説を持ち出すのはどうなんだろうね。それだったら、直虎=男性説はどうなんだよ。w

だいたい康用は、家康の遠江攻略のとき、高齢(とはいえ50代)で歩行困難だったらしく、息子の秀用が従っていた。秀用は、その後に大名に取り立てられたが、なぜか子孫に領地を分け与えたので、子孫は旗本となっている。やらた出てきた気賀も、子孫が代々代官を務めてきたのだ。子孫は不愉快じゃないのかね。w

ちなみに、近藤氏は、『今昔物語』の「芋粥」に出てくる利仁将軍(鎮守府将軍・藤原利仁)の子・叙用[のぶもち]の子孫ってことになっている。代々「用」の字を名乗っているのはそのため。


小野氏は、小野妹子や小野篁の子孫を名乗っていて、政次のもう一つの名、というよりこっちの方が有名なんだけど、「道好」ってのがヤバイ。小野道風と小野好古から一字ずつ取っている。道風は、平安中期の貴族で、「三蹟」の一人。柳の枝に飛びつこうとするカエルを見て、「努力は必ず報われる」って思ったという伝説がある。好古は、その兄で、武人として有名。承平天慶の乱で、大宰府を襲撃した藤原純友を博多津で撃退した。文武に優れた祖先の兄弟から一字ずつもらって、「俺ってスゲエだろ」ってところが、ちょっとヤバイ。

直満-直親-直政(虎松)とは、親(政直)の代から敵対してて、直満は政直が、直親は政次がそれぞれ今川氏に殺させており、虎松も亡き者としようとした。井伊氏のために芝居を打っていたって誰が信じるだろうか?w

圧倒的に悪い人が出てきちゃいけないのかね。悪の美学だってあるだろうに…。そういう人がいないと、ドラマがちっちゃくなっちゃうんだよね。ただでさえ、静岡県内、てか浜松市内に収まっちゃう、ちっちゃなドラマなのに…。直虎も、何も柴咲コウがやる必要ないんだよ。オダナナ(織田奈那)でじゅうぶんだよ。w

2017.08.21 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(4) |

小中高等学校ではいろいろな知識を児童や生徒に教えるが、何でもかんでも教えられるわけではない。





近江アナばかりか、まどちゃん(森保まどか)も地理が苦手。w

重要なのは、江戸時代の河川改修は、水害防止よりも、水運が目的で行われていること。だから、入間川にムリヤリ荒川を合流させて、江戸に流したので、オイラの住む地域は水害頻発地域となった。で、それを防ぐために、荒川放水路(荒川)を掘らねばならなくなった。

また、利根川の東遷も、江戸を水害から守るためとは、とてもいえない。千葉県の関宿が戦国時代に関東の交通の要衝だったから、そこに寄せて利根川を東遷させ、太日川(江戸川)も東に寄せた。その証拠に、江戸時代初め、江戸川との分岐点から鬼怒川との合流点までの川幅は、川船が通れる程度の広さだった。

むしろ、明治以降になって、首都を水害から守るために、さまざまな工夫がなされるようになったって感じ。

荒川の横堤と遊水地

2017.07.23 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

《ヒト「アフリカ起源説」覆る?人類最古の化石、ヨーロッパで発見》という記事が出た。

 わたしたちホモ・サピエンスの種が初めて現れたのは、およそ20万年前、そしてそうした人類の祖先はアフリカ大陸が起源と考えられています。しかし、ヨーロッパで発見された化石が、今まで知られていた中で最も古い717万年前の人類化石であるという最新の研究論文が発表されました。

ヒト「アフリカ起源説」覆る?人類最古の化石、ヨーロッパで発見

この記事では「グレィコオピテクス」とあるが、ギリシアとブルガリアで見つかり、ギリシアのことを「グレコ」というので、「グレコピテクス」でいいんじゃないのかな。

ちなみに、記事には《わたしたちホモ・サピエンスの種が初めて現れたのは、およそ20万年前》とあるが、ちょっと前に30万年前に「初期ホモ・サピエンス」が生きていたという記事が出ている。

 はるか昔、現在のモロッコにあたるサバンナ地帯で、太古の人類が集団で焚き火を囲んでいた。焚き火のまわりには、彼らが使っていた石器が散乱していた。このほど、火に熱せられた石器を調べることで、彼らが生きた時代が今から30万年以上も前だったことが明らかになった。

<解説>30万年前の初期ホモ・サピエンスは人類史をこう書き換える

この《「初期ホモ・サピエンス」が30万年前に生きていた》という記事に対しても、否定的な意見があり、記事では紹介されている。

「グレコピテクス」についても、歯だけで最古の人類と決めるのはおかしい。類人猿なんじゃないのか?という反論があるが、サヘラントロプスやアルディピテクスも歯の特徴で人類としたじゃないかとの反反論もあってなかなかおもしろい。

類人猿グレコピテクスはヒトなのか?

霊長類の分類は以下のとおりだが、グレコピテクスが最古の人類だと、赤字に位置するそうだ。



霊長類
□曲鼻猿亜目:キツネザル下目、ロリス下目
□真鼻猿亜目
  ■メガネザル科
  ■真猿類
    ◇広鼻猿類:オマキザル科、ヨザル科、サキ科、クモザル科
    ◇狭鼻猿類
      ◆オナガザル上科
      ◆ヒト上科
        ◎テナガザル科
        ◎オランウータン科
        ◎ヒト科
          ○ギガントピテクス属
          ○ヒト亜科
            ●ゴリラ属
            ●ヒト族
              △チンパンジー族
              △ヒト亜族
                ▲グレコピテクス
                ▲猿人 (サヘラントロプス、オロリン)
                ▲ヒト属(ホモ)
                  ▽原人
                  ▽ネアンデルタール人、デニソワ人
                  ▽ホモ・サピエンス
                    ▼ホモ・サピエンス・サピエンス



ちなみに、現生人類の一部(といっても、むしろ多数派なのだがw)がネアンデルタール人やデニソワ人との混血であることがわかったので、彼らもホモ・サピエンスに含めるべきとの意見も出ている。

2017.06.15 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

Eテレ「先人たちの底力 知恵泉」で、2週連続、邪馬台国をやっていた。しかも、ゲストが石田衣良さん、村井美樹さんに加え、“タケちゃんマン”こと吉村武彦・明治大学名誉教授だった。w

古代史“最大”の謎、邪馬台国のミステリーを題材に、歴史の楽しみ方の知恵を探る。九州説、畿内説、四国説、さらには沖縄にある卑弥呼の海底神殿まで、想像の翼を広げる。

歴史が苦手という3代目店主の二宮アナが、歴史の楽しみ方の知恵を、古代史のミステリー邪馬台国探しから味わう。「邪馬台国はどこにあるのか?」邪馬台国の名は「魏志倭人伝」にしか登場せず、圧倒的な史料不足が謎解明の最大のネックなのだが、実はそのことこそが、逆に様々な妄想を膨らませる余地を生み、ロマンをかきたてる魅力となっている。先人たちの妄想と最新の研究成果を盛り込んで、歴史の楽しみ方のだいご味を味わう。

邪馬台国はどこにある?古代ミステリー楽しもう・前編



邪馬台国のミステリーを通じて歴史の楽しみ方の知恵を味わう。二宮アナが店を飛び出し、古代王国の足跡を訪ねる。見えてきたのは「邪馬台国などない」という衝撃の結末!?

邪馬台国探しの旅に出た二宮アナ。北九州や出雲から見えてきたのは、稲作をするムラの集まりという弥生時代のイメージを覆す、ダイナミックな日本の姿だった。さらに、邪馬台国の最有力候補地のひとつ奈良の纏向(まきむく)遺跡からは、不思議なことに畑や田んぼ、農具など、生活必需品がほとんど見つかっていない。そこから導き出さた驚きの結論は「邪馬台国という国はなかった!?」。想像の翼を広げる歴史の楽しみ方を味わう。

邪馬台国はどこにある?古代ミステリーを楽しもう・後編

「邪馬台国という国はなかった」の意味は、「邪馬台国」という国は存在せず、「邪馬台国」という名前の連合国家が存在したのではないか、ということ。纒向遺跡は、「邪馬台国」連合の政治・祭祀センターで、政治・祭祀都市だったから「畑や田んぼ、農具など、生活必需品がほとんど見つかっていない」という意味だ。

このような番組に邪馬台国九州説を信奉する方々が「発狂」しているのかと思ったら、ツイッターで探しても見当たらなかった。この番組を知らないのか、最初から見ないようにしているのか、「邪馬台国という国はなかった」の意味を上記のように解釈できないのか、わからないが、寂しいな。古田武彦氏が亡くなって1年半しか経ってないのに、信奉者はいなくなってしまったんでしょうか?

2017.05.17 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

この論文、ネットでえらい人気なんだが…。

 東日本大震災では,多くの神社が津波被害を免れたことが指摘されている.本研究では,日本の神社に祀られる祭神の多様性は,人びとの関心に応じた差異化の結果であるという仮説から,宮城県沿岸部の神社についてその祭神と空間的配置に着目しながら被害調査を行った.祭神については特に,ヤマタノオロチ退治で知られるスサノオノミコトに着目した.スサノオは無病息災の神として祀られることから,洪水や津波といった自然災害時にも大きな役割を果たすと考えられる.また,地域の治水上の要所に鎮座していることが多い.東北での調査から,スサノオを祀った神社,またスサノオがルーツであると考えられる熊野神社は,そのほとんどが津波被害を免れていることを明らかにした.この結果は,地域の歴史や文化をふまえたリスク・マネジメントのあり方について重要な知見を提供する.

東日本大震災の津波被害における神社の祭神とその空間的配置に関する研究(PDF)

津波被害を免れたのは、1)スサノオを祀る八坂、八雲、八重垣、須賀神社、2)スサノオと同一視される熊野神社、3)八幡宮である。それに対して、被災したのが4)稲荷社と5)アマテラスを祀った神社なのだそうだ。

スサノオノミコトを祀る神社として、八坂、八雲、八重垣、須賀神社をあげているが、八重垣神社以外は、もともと祀られていたのは牛頭天王で、災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神として信仰されている。これが江戸~明治にかけて復古神道の影響でスサノオと習合したもので、「スサノオを祀る神社」といってよいのか怪しい。しかも、その八重垣神社は被災しているので、なんだかなあって感じだ。

熊野神社は、熊野本宮大社の主祭神ケツミコノカミがスサノオと同一視されている。スサノオは、髭が杉、胸毛がヒノキ、尻の毛が槇、眉毛がクスノキになったと伝えられ、子どもが木種をもって紀伊国に行ったので、ケツミコと同一視されるらしい。しかし、12世紀に成立した「熊野権現御垂迹縁起」によると、ケツミコは、唐国から来たとされ、阿弥陀如来と同一視されている。また、熊野本宮大社は洪水の被害を受けているのだが、そのことについては何も語られていない。

八幡宮は、宇佐神宮を総本社とし、祭神は八幡大神で応神天皇である。しかし、地域インフラの守り神として、それにふさわしいロケーションに勧請されたと紹介されているが、スサノオとの関係はぜんぜん語られていない。

これらに対して、稲荷社は、稲荷神が稲作に関係する農地に祀られ、そこが湿地などを利用して耕作されたことから、津波の被害を受けたとある。また、屋敷神なので、災害時を考えて場所を選んでいないから、被災したと説明している。

また、「アマテラスを祀った神社の多くが被災したことの理由については定かでない」と書いてある。

なんか、思いつきで書いたんじゃないかと思える内容なので、なんでこんなにもてはやされているのだろうか、という疑問がわく。もてはやしている人も神道について詳しくないんじゃないのかな。

2017.05.15 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

農業嫌い

の一部をツイートした。



そしたら、こんな返信があった。w


これにこう返信したら、


こんな返信があった。


戦争で相手を皆殺しにするから人口増が必須。なんかオカシナ話だ。w

しかし、そーゆーことを唱えている人もいるようだ。

弥生時代の始まりは定説の紀元前3世紀から500年早まるという、考古学者で国立歴史民族博物館・副館長の藤尾慎一郎氏の説を紹介しながら…。

一般に歴史書では農業が始まると戦争が起きると言われていますが、事実は逆です。

武力で序列社会を形成した後、支配者が耕作地を拡大して効率の高い穀物単独栽培を推進していくのです。


弥生時代再考(1)~水田稲作が始まって戦争が起きたのではなく、武力支配の後、耕地が拡大した。

農耕のはじまりが戦争を起こしたのではなく、戦争が農耕を拡大させた、ということらしい。

しかし、藤尾氏はべつにそんなことを言ってはいない。

 本稿では,狩猟採集民が農耕民化することからすべては始まったという枠組みでこの文化変容をとらえ,その過程で縄文人と渡来人が実際に果たした役割を明確にすることによって,議論の基礎となる弥生文化の成立過程の実態を明らかにすることを目的とした。

 まず福岡平野の遺跡ごとに,煮炊き用土器である甕の保有形態と水田の種類,遺跡が造られてからの発展過程を調べた結果,農耕民化へと縄文人をうながした契機,農耕民化が達成された時期と場所,農耕社会化への過程,土器の保有形態に違いをみせる三つのタイプの農耕民化が存在したことを確認した。

 那珂タイプ,板付タイプ,四箇タイプと仮称した三つのケースのうち初めの二つは,縄文人と渡来人の双方がそれぞれの目的をもって共に生活集団を作ることからはじまり,農耕社会化を目指したものであった。役割分担はもちろん存在し,決してどちらか一方の主体性のもとに進行した現象ではない。

福岡平野における弥生文化の成立過程 ―狩猟採集民と農耕民の集団関係

《狩猟採集民が農耕民化することからすべては始まった》って書いてあるじゃん。

ちなみに、《戦争が農耕を拡大させた》論者は、弥生時代を3つに区分している。

1.10世紀~農耕技術だけを伝えた初期渡来民(江南人+古朝鮮人)⇒まだ縄文延長の共同体社会だが、次の稲作拡大の下均しになった時代。

2.前5世紀~武力で従え、クニ(巨大集落)を作り上げた私権社会経験民(呉、越の難民)⇒序列を元にした私権社会の始まり

3.前2世紀~始皇帝の圧力から逃れ、高い技術と呪術を駆使した平和志向の支配者(楚=徐福)⇒後の神社統合に繋がる国家統合の始まり?

※農耕社会の仕組みの基礎となった弥生時代はやはり第2段階から始まる。

上記の藤尾氏の論文は1の時代の話だ!ということなのだろう。

ところで、論者は『王権誕生』を藤尾氏の著書のように紹介しているが、纒向学研究センターセンター長の寺沢薫氏の著書なんだが…。ちなみに、寺沢氏は所属しているセンターからもわかるように、纒向遺跡の研究者でもある。《高い技術と呪術を駆使した平和志向の支配者》なんて書いてあるのは、纒向遺跡が環濠集落ではなかったからなんだろうね。ますます戦争から遠ざかっているんだが…。

さて、《戦争が農業を拡大させた》論者は、徐福が日本に来たと信じているようだが、徐福の時代と纒向遺跡の間には400年以上のギャップがあり、そこはどう埋めるんだろうか?w

国立歴史民族博物館教授の松木武彦氏の『日本の歴史 1 旧石器・縄文・弥生・古墳時代 列島創世記』(小学館、2007年)によると、1の時代で戦いの痕跡が多く確認できるのは北九州で、瀬戸内や近畿以東ではほとんど見られない。また、2の時代になると、北九州では、須玖岡本遺跡(春日井市)と三雲南小路遺跡(糸島市)に大酋長(奴国と伊都国?)が現われるが、逆に戦争の痕跡は少なくなるらしい。

考古学的には、戦争が農耕を拡大させたということを明らかにできる証拠はないようだ。

ちなみに、弥生時代の最近の時代区分は以下のとおり。

   弥生前期:紀元前8・7世紀~紀元前4世紀半ば
   弥生中期:紀元前4世紀半ば~紀元前後
   弥生後期:紀元前後~紀元後3世紀

2017.05.12 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

下記のような記事を読むと、井上靜氏はどんだけ農業が嫌いなんだ!と思う。w

 報道によると、汗ばむ陽気となった6日、葛飾区の「郷土と天文の博物館」前の田んぼで、1年を通じて稲作を学ぶ同館の講座の一環の田植えがあり、親子連れなど約40人が参加、農村体験活動などをしているNPO「古瀬の自然と文化を守る会」(茨城県)のメンバーの指導で、子どもたちは「泥で足が動かないよ、助けて」と悲鳴を上げながらも、田んぼ2枚(約110平方メートル)の田植えを1時間半ほどで終えた。


 こういうの、どうなんだろうか。これはいちおう親子で自由参加なのだろうが、気が進まないのにやらされる子供は必ずいるものだ。

 かつて自分も小学五年の時、学校で強制された。身体が丈夫でないのに無理にやらされた子たちはつらそうにしながら我慢していた。今でいう「ブラック部活」と同じシゴキ感覚が、学校側にはあった。

 それを「米作りの大変さを身をもって知る必要がある」と教師は言うので、なんか中国の文化大革命の「下放」みたいだと言ったら、担任の女性教師に殴られてしまった。だから嫌な思い出だ。

 この程度のことは小学生でも五~六年生になれば普通に言う。よく運動会でマスゲームみたいなことをやらされるが「北朝鮮じゃあるまいし」とか言っていた。


 あと、ご飯を食べるなら作り方や作る大変さを知っておくべきだという、いちおうもっともな説明を教師がしても、ならコメなんて食べなくていいという子供が大勢いた。稲作は農作業の中でも特に大変な作業である。そんなことやめて他のものを食べたほうがいいのではないか。いや、もうすでにコメなんて好きじゃないからほとんど食べてないという人も、かなりいた。

 あと、左寄りな人の中には、天皇が労働とは程遠い儀式で田植えをしているのに頭にきてコメをボイコットしている人がいる。そもそも日本に貧富の差と重労働をもたらした稲作など否定し「瑞穂の国」であることをやめようというのだ。

 これは左翼だけでなく自民党など保守にも多いらしい。だからアメリカでさえトランプ大統領が拒否したTPPを促進し、日本の農業を壊滅させようとしているわけだ。

田植えを子供に強制するな

《なんか中国の文化大革命の「下放」みたいだと言ったら、担任の女性教師に殴られてしまった。だから嫌な思い出だ。この程度のことは小学生でも五~六年生になれば普通に言う》←言わないだろう。w

オイラ的には、都会の子どもには田植えの方がめずらしく、勉強するより楽しいのではないかと思う。あと、最近の子どもは、昆虫が苦手なので、少しは自然に親しむ行為をしないと困るのではないか。以前、教室にスズメバチが入り込んで生徒がパニックが起きたとき、オイラが教室の照明をすべて消させたところ、スズメバチが明るい窓の方に行った。その後、生徒を教室の外に出して、ノートで外に出したら、飛んで行った。これは、昆虫が明るい光を好むことを知っていたからできたことで、昆虫の習性を知らない子どもが大人になったら、このようなことはできないだろう。

続きを読む

2017.05.10 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |



4月16日(日)放送のNHKスペシャル「熊本城 再建 “サムライの英知”を未来へ」を録画して見た。

震度7を記録した熊本地震で甚大な被害を受けた「熊本城」。“復興のシンボル”となっている城の「再建」は、多くの被災者の悲願だ。再建に向けた第一歩として、立入禁止区域内での調査を特別に許されたNHK。4Kカメラを搭載したドローンの撮影で城全体をデジタルデータ化、精緻な「立体モデル」を製作した。その結果、意外な事実が明らかになってきた。数万個の石が崩落した文化財の「石垣」。明治時代に修復された部分で被害が目立った一方で、築城当初に造られた石垣のほとんどは地震に耐えていたことがわかったのだ。400年前のサムライは“地震に強い城”をどう造り上げたのか。私たちは、最新科学と歴史検証で知られざる“ミステリー”に迫ることにした。一方、「サムライの英知」を未来へとつなぐ再建。そこには大きな壁が立ちはだかっている。余震が相次ぐ中で石垣がふくらみ出し、新たな崩壊の危機が高まっているのだ。文化財の価値を守りながら、どう耐震性を高めるのか、模索が続く。熊本地震から1年、熊本城に隠されていたサムライの英知に迫ると共に、戦後最大の文化財被害からの再建に密着する。

熊本城 再建 “サムライの英知”を未来へ

“サムライの英知”とか言ってるけど、“職人の英知”じゃないの?とツッコミを入れたくなった。

熊本城というと、「武者返し」が有名だ。従来は、攻め手が登れなくするために、これをつくったと言われていたが、耐震性のためだという結論になった。「武者返し」は、加藤清正が1593年に朝鮮半島で築城した倭城にはなく、1596年の慶長伏見地震を体験した後、1599年から築城した熊本城で多用されるようになったからだ。ちなみに、手前が清正流石垣、後ろが細川時代に築かれた石垣とのこと。



熊本地震によって、明治以降に陸軍が積んだ石垣は30%も崩れているのに、安土桃山~江戸初期の石垣は10%しか崩れていないとのこと。

ただし、耐震性を考えたら、古い時代の“野面積み”の石垣の方が高い。



天空の城・竹田城がもてはやされたとき、ワイドショーですらやっていた。自然石なので、石と石との接着が面でなく点なので、地震力を逃がしやすいからだ。“打込み接(はぎ)”や“切込み接”だと、面で接着するので、地震力が逃げにくい。

だから、清正流の石垣も、中でぐり石が崩れ、表面が出っ張っていて、いつ崩れてもおかしくないところがあるそうだ。

2017.04.19 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

井伊美術館の井伊達夫氏といえば、大河ドラマ「女城主 直虎」が始まる直前に「直虎は男だった」と言いだした人だ。

井伊直虎「女城主」じゃなかった説

そして、こんどは「通説より14年早く死んでいた」という説を唱え始めた。w

 同館によると、古文書は、井伊家の家臣だった河手家(かわてけ)の子孫がまとめた「河手家系譜」。

 この中の文政13(1830)年に書かれたページで、河手家の人物を紹介する文章の行間に、墨字で「井ノ直虎は幼かったので河手が補佐した」と追記。この「井ノ直虎」の隣に「次郎也」と朱色の文字が付け加えられていた。

 次の行には、墨字で「永禄11年の駿河崩れの時、落ち延びる直虎が討ち死にした」として、今川家滅亡のきっかけとなった徳川家康らの今川領侵攻で直虎が討ち死にした、と書かれていた。直虎は文献から一般的に、天正10(1582)年に井伊谷(静岡県浜松市)で死去したとされていた。

「おんな城主」?井伊直虎、通説より14年早く死去か 京都・井伊美術館が発表

直虎の死から250年後に書かれた「河手家系譜」が根拠とは、いささか弱いような気がする。また、この“井ノ直虎”にわざわざ“次郎也”と書いてあるのも怪しい。つまり、“井ノ直虎”は、井伊家の家督を代々継ぐ“次郎”を名乗っているんですよ、とわざわざ注記してあるのだ。だいたい「○○家系譜」というものが、先祖の手柄を誇るため、後世につくられるものなのだから、先祖の手柄をかなり盛って書かれているものなのだ。

じつは、次郎法師(直虎)が「女地頭」であったと書いてある「井伊家伝記」も、享保15年(1730年)に龍潭寺の祖山によって作成されているので、直虎の死から150年も経っている。こっちはこっちで、井戸より出生したとされる、井伊家の祖先・共保の供養のために、井伊家に援助を促すのが目的なので、史実が書いてあるかは、けっこう怪しいのだ。

両者の主張に折り合いをつけると、直虎は2人いて、1人は井伊直盛の娘「次郎法師」で、もう1人が関口越後守氏経の子「次郎」だ。「次郎法師」が徳政令問題で苦労するんだけど、このあと、小野政次(道好)が、クーデタを起こして、井伊谷を簒奪する。そのとき立てられたのが「次郎」なのだ。で、「次郎法師」は、直親の子・直政を徳川家康に仕えさせ、家康が井伊谷に攻め込んだときに、「次郎」は討ち死にする。その後、捕えられた政次は処刑されるという話だ。これなら、矛盾なく説明できるわけだな。w


ドラマだから、べつに史実に基づかなくてもよいのかもしれないが、見ている人のなかには史実だと思って見ている人もいるので、あまりテキトーなことは描かない方が良いだろう。w


リンクがキレてたら…

続きを読む

2017.04.12 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

「忍城は水攻めはなかった?」という高校生の研究をもとに、理系クラスタの方が、文系(歴史)クラスタをバカにしてツイート。


これに文系(歴史)クラスタから反論がつぎつぎと…。w




この場所には過去に何回か行ってるんだけど、城と陣地との標高差は1メートルほどなので、自然堤防の上に1~2メートル土を盛った堤でも、じゅうぶん水攻めは可能と思われる。水攻めと行っても、城兵を溺死させるのが目的ではなく、戦意喪失させるのが目的なので、相手が困ってやる気をなくせばよいのだ。

2017.02.13 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

正月にはクダラナイ番組が多いので、BSなどで放送される歴史教養系の番組を見ていたら、昭和の教科書ではこう書かれていたが、平成の教科書ではこう書かれている的な番組をやっていた。

この手のネタで登場する肖像画として、以下の2つは超有名。w


伝・源頼朝像


騎馬武者像


上は、源頼朝像としてあまりに有名だったが、現在では別人、おそらく足利直義(尊氏の弟)ではないかといわれている。

下は、足利尊氏像として有名だったが、現代では別人、高師直(尊氏の家来)説が有力だが、教科書では「騎馬武者像」となっている。


では、現在、源頼朝の姿をもっとも正しく伝えていると考えられているのが、甲斐善光寺の木像だ。




山形勲(左)


芦田伸介


に似ている。w


そして、足利尊氏の方は等持院の木像だ。


よく見ると、カワイイ顔をしている。w

2017.01.05 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(4) |

NHK正月時代劇「陽炎の辻 完結編 ~居眠り磐音 江戸双紙~」で、佐野善左衛門刃傷事件を扱っていた。

坂崎磐音(山本耕史)は、妻・おこん(中越典子)との間に八歳の長男・空也がいる立派な父親となり、町の小さな剣術道場主として穏やかな生活を送っていた。そこに一人の若侍が現れる。名は、松平定信(工藤阿須加)。現・白河藩藩主である。

吉宗の孫として、かつては次期将軍の有力候補であったが、その聡明さを恐れた老中・田沼意次(長塚京三)によって、白河藩へと養子に出されていたのだ。若い定信は打倒田沼を果たすため、磐音に弟子入りを願う。

一方、田沼の側近は、磐音と定信の邂逅を知り、新たな刺客を磐音たちにしむける。一剣術家として、ただ息子・空也の成長を願い、家族を守り抜きたい磐音だが、政治の権力争いの舞台に巻き込まれてしまう。

やがて田沼の息子・意知(滝藤賢一)が江戸城内で襲われるという事件の背後に定信が浮かび上がり、定信の無実を信じる磐音は動き始める…!

【陽炎の辻 完結編 ~居眠り磐音 江戸双紙~】物語

田沼意知を江戸城内で殺した刃傷事件の犯人が佐野善左衛門(政言)であった。

天明4(1784)年3月24日、江戸城中で、若年寄だった意知を「覚えがあろう」と3度叫んでから、一竿子忠綱作の大脇差で襲撃し、その8日後に意知が絶命したため、切腹を命じられた。葬儀は4月5日に行われたが、両親等の遺族は謹慎中であり出席できなかった。政言は無子のため長く佐野家は絶家となった。

犯行の動機は、意知と父・意次が先祖粉飾のために佐野家の系図を借り返さなかったこと、上野国の佐野家の領地にある佐野大明神を意知の家来が横領して田沼大明神にしたこと、田沼家に賄賂を送ったが一向に昇進できなかったことなど諸説あったが、幕府は乱心とした。

しかし、世間から人気のなかった田沼を斬ったということで、世人からは「世直し大明神」として崇められた。血縁に累は及ばず、遺産も父に譲られることが認められた。

上記の系図の件だが、佐野は、自家の系図に手を加えて、系図の明らかでない田沼家が佐野家の庶流であるように改竄を申し出て、恩を売ろうとした。しかし、出自に拘泥のない意次は、政務多忙もあって、佐野の申し出を放置した。これを、佐野は、系図改竄まで申し出た自分の好意を無にしたと逆恨みした、という説もある。だとしたら、迷惑な話だ。

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2017.01.03 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

新大河ドラマ、スタート直前にこんな情報。

 「女城主」として知られ、来年のNHK大河ドラマの主人公にも決まっている戦国時代の遠江(とおとうみ、静岡県西部)井伊谷(いいのや)城主、井伊直虎(なおとら)。その「直虎」を名乗ったのは女性ではなく、いとこにあたる別の男性だった可能性を示す史料が新たに確認された。14日、井伊家の史料を収集する井伊美術館(京都市東山区)が発表した。

     (中略)

 これまでの通説では、直虎は、井伊谷城主、井伊直盛(なおもり)の娘の次郎法師(?~1582)が名乗って家督を継ぎ、後に徳川家の重臣となる井伊直政の養母となったとされてきた。

 発見された史料「守安公書記(もりやすこうしょき)」(全12冊)には、今川氏真(うじざね、義元の子)の配下にあった井伊家について記されており、井伊谷の領地が直盛の義理の兄弟・新野左馬助親矩(にいのさまのすけちかのり)の甥(おい)にあたる井伊次郎に与えられたとの記述があった。

「おんな城主直虎」は男だった? 大河主人公に新史料



   NHK「ケチつけんなや」
   朝日「史実なんだからしょうがないだろ」

…ってこと。w


リンクがキレてたら…

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2016.12.19 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

板垣退助って大河ドラマの主人公にふさわしい?

という記事を書いたが、12月13日放送の「林修の今でしょ!講座」の「大河ドラマの主人公にしたい偉人講座」で、磯田道史氏が板垣退助とならんで、上杉鷹山(治憲)をあげていた。

上杉鷹山は、破産しかけた米沢藩を建て直し、日本でもっとも古く(1795年)公娼制度を廃止した名君であるが、大河ドラマにするにはマズイところがある。それは、鷹山の正妻が知的障がい者であったということである。

鷹山は、もともとは日向(宮崎県)高鍋藩主・秋月種美の次男であり、9歳のとき、米沢藩主・上杉重定の養嗣子となった。16歳のとき家督を継ぎ、18歳で重定の二女で2歳年下の幸姫(よしひめ)と婚礼をあげるが、彼女に知的障がいがあった。鷹山は、幸姫を邪険にすることなく、30歳で彼女が亡くなるまで、雛遊びや玩具遊びの相手をし、仲睦まじく暮らした。

この時代、家付き娘と結婚しても、子どもが産まれなかったら、その娘を家から追い出すことができた。酷い話だが、『東海道四谷怪談』のモデルとなった『四谷雑談(ぞうたん)』もこの手の話だ。岩と結婚して田宮家の養子となった伊右衛門は、岩に暴行を働き、家から追い出してしまう。しかし、それは、伊右衛門の上司・伊東喜兵衛の陰謀で、自ら妊娠させた花を伊右衛門に押し付けるためだった。そのことを知った岩は失踪してしまい、その後、田宮家と伊東家に不幸が続くという話だ。

現代でも、子どもに知的障がいがあると、妻に任せきりにしてしまったり、ひどいと離婚(もちろん子どもの養育は放棄)してしまう男がいるということを考えたら、鷹山は立派である。しかし、ドラマでは、健常者である女優が知的障がい者を演じることになるので、諸方面からの抗議が予想される。NHKはそういうことを嫌うので、鷹山は大河ドラマの主人公にはなれないだろう。

ちなみに、父である重定も、娘に知的障がいがあることを知らなかったようで、娘の遺品を手にして初めてそのことを知り、不憫な娘への治憲の心遣いに涙したという。現代社会では信じられない話だが、家督を譲ってからは米沢に隠居し、江戸藩邸の娘とは幼少時から顔を会わせていなかったそうだ。

幸姫が子どもを産めないので、鷹山は、29歳のとき、10歳年上のお豊の方(浄鏡院)を側室とした。2人の男児が生れたが、2人とも早世してしまい、養父の実子・治広に家督を譲っている。重定が、実子がいるのに、鷹山を養子に迎えたのは、鷹山が、幼少のころからたいへん頭が良いことが知られていて、藩財政立て直しのため、ぜひとも養子にしたかったからだ。

鷹山のように、公私ともに立派な殿様というはめずらしいが、上のような理由で大河の主人公にはなれないだろう。

2016.12.14 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

12月13日放送の「林修の今でしょ!講座」で「大河ドラマの主人公にしたい偉人講座」という講義wを磯田道史氏がしていた。

歴史学者・磯田道史が教える『大河ドラマの主人公にしたい偉人講座』 数々の江戸時代に関する著作が映画化されるほどの人気歴史学者・磯田先生が、あまり有名ではないが、大河ドラマの主人公に推したい偉人をプレゼンする新企画!今年は真田幸村、再来年は西郷隆盛が主人公として登場する大河ドラマだが、果たして磯田先生が推したい偉人とは!?教科書には載っていない魅力やエピソード、面白い裏話を熱く語る。日本一面白い歴史講座

『大河ドラマの主人公にしたい偉人講座』&『カッコいい美文字の書き方講座』

磯田氏は、大河ドラマの主人公にふさわしい歴史上の人物として板垣退助と上杉鷹山をあげていたけど、上杉鷹山はともかく、板垣退助って大河ドラマの主人公にふさわしいのか?


磯田氏は板垣退助をあまり身分の高くない武士のように言っていたが、板垣家(乾家)は、父の代まで300石取りの上士であり、退助のとき220石まで減らされたが、大身であることに変わりはない。

土佐藩で上士と下士の身分差が激しいことは、坂本龍馬の伝記などを読めばわかる。退助自身は、谷干城らとともに、上士でありながら下士と親しかったのは事実だが、下士でないことは明らかだ。

そもそも板垣家は、武田信玄の重臣だった板垣信方の子孫で、訳あって乾姓を名乗っていたのであって、大久保大和(近藤勇)率いる甲陽鎮撫隊と甲州勝沼で合戦する前に、甲州の人心掌握のため板垣姓に戻したのだが、そのことにはいっさい触れてなかった。

あと、日光東照宮に立てこもった大鳥啓介らに表に出て戦うことを説得し、新政府側には後水尾天皇親筆の額が燃えてしまうと総攻撃を遅らせ、日光東照宮が焼失することを防いだ話とか、会津戦争での会津側戦死者の供養を許すなど、カッコいい話がいっぱいあるのだが、それらはスルーだった。


板垣退助といえば、「板垣死すとも自由は死せず」が有名だが、これは1882年の岐阜事件で暴漢に襲われたときに発した言葉とされている。「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言ったと記録されているので、事実らしい。「痛い! 死ぬのか?」と叫んだのを「板垣死すとも…」と新聞記者が勝手に書いたというのはウソのようである。w

翌年(1883年)、伊藤博文らの甘言に乗り、欧州留学に行くのだが、費用を政府からもらったことで、自由民権運動を裏切ったかのように言われた。磯田氏はこのことを強調していたが、彼が留学している間に、自由民権運動が士族民権→豪農民権→農民民権と変化し、それに対する政府の弾圧も激しさを増した。彼の帰国後、加波山事件が起きた(1884年10月)。退助は、運動の過激化を嫌って、自らが党首である自由党を解党してしまう。その2日後に秩父事件が起こるのだが、運動への裏切りはむしろこっちの方で、この話もスルーだった。

このあたりの事情をちゃんと扱ってくれるのなら良いのだが、大河ドラマの傾向としては主人公の美化が激しいので、運動を過激化させた方が悪いかのように扱われるのではないかと心配してしまう。むかし放送した「獅子の時代」では、主人公(加藤剛と菅原文太)は架空の人物だったが、秩父事件を好意的に扱っていたぞ。


…というわけで、オイラ的には板垣退助は大河の主人公にふさわしいとは思えないのだが、みなさんはどうだろう。

2016.12.14 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

前者=現代の(女性)政治家と、後者=歴史上の(女性)政治家では、政治であつかう対象がぜんぜんちがうので、比較しても意味がないような気がする。



国家の範囲がちがっていて、近代国家(広義国家)は、支配者だけでなく、被支配者も国家の構成員となっている。政治家も、支配者だけでなく、被支配者についても気を配らなければならない。だから、自分の選挙区の住民から陳情を受け、彼らに対する政策を政府に働きかけたりする。ネットで「保育園落ちた 日本死ね」という記事が話題になったら、保育行政について厚生労働省に質問をするわけだ。

これに対して、前近代国家(狭義国家)は、基本的には支配者だけの国家であり、支配者にだけ気を配ればよい。北条政子は、御家人間の力関係と、朝廷と幕府の関係だけ見ていればよく、日野富子は、守護大名の力関係と、京都の町衆や京都周辺の国人層くらいを見ていればよかった。政子にとって下人・所従=荘園にいる隷属農民、富子にとって形成されつつあった惣村に住む農民、そして、それ以外の被支配民に対して、何かをしなければならない理由はなかった。

歴史上の人物が自分と同じような人間だと思うこと自体がそもそものマチガイで、まったく異なった思考や感性の持ち主と考えた方がよい。歴史教育とは、本来、そのようなものなのだが、大河ドラマのような疑似歴史ドラマのせいで、誤った歴史観がこの国には蔓延しているようだ。

2016.12.07 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |



昨夜(12/6深夜)に再放送された「戦艦武蔵の最期 ~映像解析 知られざる“真実”~」を観た。

人類史上最大の戦艦でありながら日本海軍のトップシークレットとして、その存在やデータを徹底的に隠蔽されてきた戦艦「武蔵」。太平洋戦争の真っ只中に米軍機の猛攻を受け壮絶な最後をとげたとされている。去年3月、フィリピン沖の海底1000mの深海で発見され、アメリカのプロジェクトチームによって初めて映像が記録、公開された。こうした記録映像やNHKが独自に入手した新資料の詳細な分析から、いま、歴史の定説を覆す武蔵の実像が次々と浮かび上がってきている。日本の最高技術を結集し“不沈艦”とまで言われた武蔵だが、実は決定的な脆さを抱えた構造の艦であったことなど、知られざる実態が明らかになりつつある。番組では、NHKが開発してきた映像解析技術と新資料から「武蔵の実像とその最後」を完全再現。わずかとなった元乗組員の生存者や、世界の軍事専門家たちと共に、歴史の闇に埋もれてきた戦艦武蔵の真実に迫る。

戦艦武蔵の最期 ~映像解析 知られざる“真実”~

12/4夜の本放送後、この番組を観たネトウヨがキレて必死に反論していたので、ぜひとも再放送を観たいと思っていた。わが家では、母親が裏番組のドラマ(織田裕二ではなく、玉木宏の方)を観ており、もう一つのドラマも録画していたので、観れなかった。w

上記の「決定的な脆さ」とは、遠距離からの砲撃に耐えられるように設計されていたが、航空機による真横からの魚雷攻撃は想定しておらず、とくにリベットで繋ぎ合わせた装甲盤が魚雷攻撃で破壊され、そこからの浸水で沈没したということ。当時の技術では分厚い装甲盤を溶接することができなかったからだ。しかも、そこが弱点であることは、同型の大和が1発の魚雷攻撃で装甲盤の繋ぎ目のリベットが緩んだことで、知られていた。しかし、海軍上層部は、弱点を知りながら、対策をとろうとしなかった。


これに対して、ネトウヨたちが、日本は世界でもっとも早く「大艦巨砲主義」から脱していたとか、アメリカの戦艦ミズーリだったらもっと早く沈没していた、などと騒いでいた。

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2016.12.07 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

伊東乾氏が昨日の記事

歴史は科学で学ばないとw

をもとにしたオイラのツイートに反論?してきたような、そうでないような。


「奈良盆地、河内平野、巨椋池はどうなんだよ!ボケ!」ってことかな?

しかし、下図を見ると、古墳時代の豪族も古墳も奈良盆地や河内平野のど真ん中は避けているように見えるが…。



また、平城京は奈良盆地の北端、下図にはないが、藤原京は南端。やっぱり盆地のまん中(大和川流域)は避けているように見える。



難波京は上町台地の北端(大阪城の近く)だし、仁徳陵と応神陵も段丘上。平野のまん中にはない。

巨椋池は、宇治川・桂川・木津川が流れ込んでいて、大雨が降ると周辺は洪水に見舞われていた。



豊臣秀吉が、堤を築いて宇治川の流れを変え、洪水を防ぐとともに、水運に利用したのだった。

2016.11.30 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(2) |

伊東乾氏の書いた記事を読んで、たいへん残念なキモチになりました。w

 古代人にとって金属器は極めて貴重で、そんじょそこらに落ちているようなものではなかったわけですね。縄文時代は言うまでもなく、弥生、古墳、飛鳥時代でも、日本の農民は基本、オール木製の農機具が基本だったと考えて外れない。

 飛鳥から奈良期にかけて、日本全国の土地支配体制が体系化、一新されていきます。全国に「国衙」つまり中央支配の国府が置かれ、彼らが地方の農民を支配、徴税するシステムを確立していった。

 でも、日本全国の農民は、どうしてそんな、奈良や飛鳥の中央貴族の言うがままに搾取されていたのか。反乱を起こして税金など拒否すればいいじゃないですか。

 古代中央貴族はテクノロジーの権利料で地方農民を搾取していたんですね。現実には金属製の農機具、これを貸与した。

 古代農民は、木製とは比較にならない高能率で仕事が進む農機具を毎朝役所から借り、夕方には洗って戻さねばならなかった。

 木炭その他を用いた、大陸由来の冶金テクノロジーの権利料支配が「班田収授」を支え、また鉄器だけでは耕地面積は広がらないので「三世一身法」などで開墾、新田開発を促した。

 しかし、公営の土地以外では金属製農具の使用は禁じられていたので、私営田では相変わらず、非能率な木製農具が使われていた。

 日本国内で古代から栄えた土地、大阪でも京都でも奈良でも、あるいは博多でも大宰府でも秩父でも常陸でも相馬でも同じことですが、木製の粗製農具でもどうにか耕作ができるくらい、軟弱な地盤でなければ経済そのものが成立することがなかった。

博多の陥没と地震災害が教える貴重な日本史 日本人はなぜ軟弱な地盤の上に住んでいるのか

《縄文時代は言うまでもなく、弥生、古墳、飛鳥時代でも、日本の農民は基本、オール木製の農機具が基本だったと考えて外れない》←これはマチガイ。

鉄は、朝鮮半島からの輸入品だったが、日本国内で火入れ・加工されて利用された。北部九州では紀元前1世紀頃にかなり普及しており、それ以外の中国・四国・近畿以東でも紀元後1世紀には普及していた。6世紀以降になると、国内での生産がはじまった。

《古代農民は、木製とは比較にならない高能率で仕事が進む農機具を毎朝役所から借り、夕方には洗って戻さねばならなかった》←これは司馬遼太郎の『街道を行く』第7巻(朝日新聞社、1979年)に載っているんだけど、史実をもとに書いたのかよくわからない。

林正之「古代における鉄製鍬先の研究 ―7世紀後半~11世紀の関東・東北を中心に―」を読むと、最後の方に「鍬先出土遺跡一覧」が載っていて、鍬先の出土は、1980年代以降がほとんどで、1970年代以前がほとんどないことがわかる。司馬の文章は、このような出土状況のとき、書かれたものだと思った方がよさそうである。

林論文によると、8~9世紀(奈良時代から平安時代初期)、鉄製鍬先の生産・流通に国家や国家に結びつく勢力が関与していたことは、規格が統一されたU字型の鍬先が南東北と関東で出土することから分かっているが(北東北では独自の鍬先が使われ続けた)、鉄製鍬先がついた農具が、図書館の本のように、いちいち貸出・返却されていたかは分からない。

それ以前は、日本各地でその地域ごとの鉄製鍬先がつくられていて、国家と無関係に利用されていたようである。また、9~10世紀になると、製鉄のラッシュが起こり、鉄製鍬先の生産・流通が国家の手を離れてしまったようだ。

基本的なことだが、農業は、江戸時代以降、沖積平野で行われることが多いが、それは大河の治水・利水が可能になったからで、それ以前は、谷間や中小河川に沿った場所でしかできなかったのだ。軟弱地盤の沖積平野に人が住むようになったのは、江戸時代以降であり、それ以前は、住んでいても、洪水に遭いにくい自然堤防の上に住んでいたようだ。

じつは、谷間や中小河川の流域も、軟弱地盤なんだけどね。そもそも稲作って、地下水位の高い湿田で行われてきたから(今は地下水位の低い乾田でもできるが)、国家や権力者に強制されようが、されまいが、軟弱地盤のところでやらないといけなかったのでは?

そのほかにもツッコミどころがある。

 他方、奈良時代の歴史を学ぶと「和同開珎」が「日本で初めて鋳造・発行された銭貨」として教えられます。和銅元年=708年、つまり奈良時代初期になって初めて「日本(=この場合は埼玉県秩父市・秩父郡)で銅貨を鋳造した」とある。元号まで変えて大変な騒ぎようです。

現在では、「和同開珎」以前に「富本銭」(683年)、それより前に「無文銀銭」(667年~672年)が発行されていたことが知られている。「富本銭」の方は、1999年に飛鳥池工房遺跡から33点も出土して大々的に報道され、高校日本史Bの教科書には11冊中10冊に載っている。伊東氏は、このような記事を書く前に、調べるべきではないだろうか。

 歴史は科学で学ばないと、単なる事項の羅列で知恵になりません。以上は実は、私自身が小学生時代、「青銅器」と「和同開珎」に疑問を持ったとき、史学科出身の母から教わった骨子に肉づけして書いてみました。

いやはや、それでは、現在の考古学や歴史学の知識を知らなくてもしょうがないですね。情報が古すぎる。てか、歴史学や考古学には進歩がないとでも思っているのだろうか? 科学で学ぶ前に、歴史の勉強をしてください。w

2016.11.29 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |