4月16日(日)放送のNHKスペシャル「熊本城 再建 “サムライの英知”を未来へ」を録画して見た。

震度7を記録した熊本地震で甚大な被害を受けた「熊本城」。“復興のシンボル”となっている城の「再建」は、多くの被災者の悲願だ。再建に向けた第一歩として、立入禁止区域内での調査を特別に許されたNHK。4Kカメラを搭載したドローンの撮影で城全体をデジタルデータ化、精緻な「立体モデル」を製作した。その結果、意外な事実が明らかになってきた。数万個の石が崩落した文化財の「石垣」。明治時代に修復された部分で被害が目立った一方で、築城当初に造られた石垣のほとんどは地震に耐えていたことがわかったのだ。400年前のサムライは“地震に強い城”をどう造り上げたのか。私たちは、最新科学と歴史検証で知られざる“ミステリー”に迫ることにした。一方、「サムライの英知」を未来へとつなぐ再建。そこには大きな壁が立ちはだかっている。余震が相次ぐ中で石垣がふくらみ出し、新たな崩壊の危機が高まっているのだ。文化財の価値を守りながら、どう耐震性を高めるのか、模索が続く。熊本地震から1年、熊本城に隠されていたサムライの英知に迫ると共に、戦後最大の文化財被害からの再建に密着する。

熊本城 再建 “サムライの英知”を未来へ

“サムライの英知”とか言ってるけど、“職人の英知”じゃないの?とツッコミを入れたくなった。

熊本城というと、「武者返し」が有名だ。従来は、攻め手が登れなくするために、これをつくったと言われていたが、耐震性のためだという結論になった。「武者返し」は、加藤清正が1593年に朝鮮半島で築城した倭城にはなく、1596年の慶長伏見地震を体験した後、1599年から築城した熊本城で多用されるようになったからだ。ちなみに、手前が清正流石垣、後ろが細川時代に築かれた石垣とのこと。



熊本地震によって、明治以降に陸軍が積んだ石垣は30%も崩れているのに、安土桃山~江戸初期の石垣は10%しか崩れていないとのこと。

ただし、耐震性を考えたら、古い時代の“野面積み”の石垣の方が高い。



天空の城・竹田城がもてはやされたとき、ワイドショーですらやっていた。自然石なので、石と石との接着が面でなく点なので、地震力を逃がしやすいからだ。“打込み接(はぎ)”や“切込み接”だと、面で接着するので、地震力が逃げにくい。

だから、清正流の石垣も、中でぐり石が崩れ、表面が出っ張っていて、いつ崩れてもおかしくないところがあるそうだ。

2017.04.19 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

井伊美術館の井伊達夫氏といえば、大河ドラマ「女城主 直虎」が始まる直前に「直虎は男だった」と言いだした人だ。

井伊直虎「女城主」じゃなかった説

そして、こんどは「通説より14年早く死んでいた」という説を唱え始めた。w

 同館によると、古文書は、井伊家の家臣だった河手家(かわてけ)の子孫がまとめた「河手家系譜」。

 この中の文政13(1830)年に書かれたページで、河手家の人物を紹介する文章の行間に、墨字で「井ノ直虎は幼かったので河手が補佐した」と追記。この「井ノ直虎」の隣に「次郎也」と朱色の文字が付け加えられていた。

 次の行には、墨字で「永禄11年の駿河崩れの時、落ち延びる直虎が討ち死にした」として、今川家滅亡のきっかけとなった徳川家康らの今川領侵攻で直虎が討ち死にした、と書かれていた。直虎は文献から一般的に、天正10(1582)年に井伊谷(静岡県浜松市)で死去したとされていた。

「おんな城主」?井伊直虎、通説より14年早く死去か 京都・井伊美術館が発表

直虎の死から250年後に書かれた「河手家系譜」が根拠とは、いささか弱いような気がする。また、この“井ノ直虎”にわざわざ“次郎也”と書いてあるのも怪しい。つまり、“井ノ直虎”は、井伊家の家督を代々継ぐ“次郎”を名乗っているんですよ、とわざわざ注記してあるのだ。だいたい「○○家系譜」というものが、先祖の手柄を誇るため、後世につくられるものなのだから、先祖の手柄をかなり盛って書かれているものなのだ。

じつは、次郎法師(直虎)が「女地頭」であったと書いてある「井伊家伝記」も、享保15年(1730年)に龍潭寺の祖山によって作成されているので、直虎の死から150年も経っている。こっちはこっちで、井戸より出生したとされる、井伊家の祖先・共保の供養のために、井伊家に援助を促すのが目的なので、史実が書いてあるかは、けっこう怪しいのだ。

両者の主張に折り合いをつけると、直虎は2人いて、1人は井伊直盛の娘「次郎法師」で、もう1人が関口越後守氏経の子「次郎」だ。「次郎法師」が徳政令問題で苦労するんだけど、このあと、小野政次(道好)が、クーデタを起こして、井伊谷を簒奪する。そのとき立てられたのが「次郎」なのだ。で、「次郎法師」は、直親の子・直政を徳川家康に仕えさせ、家康が井伊谷に攻め込んだときに、「次郎」は討ち死にする。その後、捕えられた政次は処刑されるという話だ。これなら、矛盾なく説明できるわけだな。w


ドラマだから、べつに史実に基づかなくてもよいのかもしれないが、見ている人のなかには史実だと思って見ている人もいるので、あまりテキトーなことは描かない方が良いだろう。w


リンクがキレてたら…

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2017.04.12 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

「忍城は水攻めはなかった?」という高校生の研究をもとに、理系クラスタの方が、文系(歴史)クラスタをバカにしてツイート。


これに文系(歴史)クラスタから反論がつぎつぎと…。w




この場所には過去に何回か行ってるんだけど、城と陣地との標高差は1メートルほどなので、自然堤防の上に1~2メートル土を盛った堤でも、じゅうぶん水攻めは可能と思われる。水攻めと行っても、城兵を溺死させるのが目的ではなく、戦意喪失させるのが目的なので、相手が困ってやる気をなくせばよいのだ。

2017.02.13 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

正月にはクダラナイ番組が多いので、BSなどで放送される歴史教養系の番組を見ていたら、昭和の教科書ではこう書かれていたが、平成の教科書ではこう書かれている的な番組をやっていた。

この手のネタで登場する肖像画として、以下の2つは超有名。w


伝・源頼朝像


騎馬武者像


上は、源頼朝像としてあまりに有名だったが、現在では別人、おそらく足利直義(尊氏の弟)ではないかといわれている。

下は、足利尊氏像として有名だったが、現代では別人、高師直(尊氏の家来)説が有力だが、教科書では「騎馬武者像」となっている。


では、現在、源頼朝の姿をもっとも正しく伝えていると考えられているのが、甲斐善光寺の木像だ。




山形勲(左)


芦田伸介


に似ている。w


そして、足利尊氏の方は等持院の木像だ。


よく見ると、カワイイ顔をしている。w

2017.01.05 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(4) |

NHK正月時代劇「陽炎の辻 完結編 ~居眠り磐音 江戸双紙~」で、佐野善左衛門刃傷事件を扱っていた。

坂崎磐音(山本耕史)は、妻・おこん(中越典子)との間に八歳の長男・空也がいる立派な父親となり、町の小さな剣術道場主として穏やかな生活を送っていた。そこに一人の若侍が現れる。名は、松平定信(工藤阿須加)。現・白河藩藩主である。

吉宗の孫として、かつては次期将軍の有力候補であったが、その聡明さを恐れた老中・田沼意次(長塚京三)によって、白河藩へと養子に出されていたのだ。若い定信は打倒田沼を果たすため、磐音に弟子入りを願う。

一方、田沼の側近は、磐音と定信の邂逅を知り、新たな刺客を磐音たちにしむける。一剣術家として、ただ息子・空也の成長を願い、家族を守り抜きたい磐音だが、政治の権力争いの舞台に巻き込まれてしまう。

やがて田沼の息子・意知(滝藤賢一)が江戸城内で襲われるという事件の背後に定信が浮かび上がり、定信の無実を信じる磐音は動き始める…!

【陽炎の辻 完結編 ~居眠り磐音 江戸双紙~】物語

田沼意知を江戸城内で殺した刃傷事件の犯人が佐野善左衛門(政言)であった。

天明4(1784)年3月24日、江戸城中で、若年寄だった意知を「覚えがあろう」と3度叫んでから、一竿子忠綱作の大脇差で襲撃し、その8日後に意知が絶命したため、切腹を命じられた。葬儀は4月5日に行われたが、両親等の遺族は謹慎中であり出席できなかった。政言は無子のため長く佐野家は絶家となった。

犯行の動機は、意知と父・意次が先祖粉飾のために佐野家の系図を借り返さなかったこと、上野国の佐野家の領地にある佐野大明神を意知の家来が横領して田沼大明神にしたこと、田沼家に賄賂を送ったが一向に昇進できなかったことなど諸説あったが、幕府は乱心とした。

しかし、世間から人気のなかった田沼を斬ったということで、世人からは「世直し大明神」として崇められた。血縁に累は及ばず、遺産も父に譲られることが認められた。

上記の系図の件だが、佐野は、自家の系図に手を加えて、系図の明らかでない田沼家が佐野家の庶流であるように改竄を申し出て、恩を売ろうとした。しかし、出自に拘泥のない意次は、政務多忙もあって、佐野の申し出を放置した。これを、佐野は、系図改竄まで申し出た自分の好意を無にしたと逆恨みした、という説もある。だとしたら、迷惑な話だ。

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2017.01.03 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

新大河ドラマ、スタート直前にこんな情報。

 「女城主」として知られ、来年のNHK大河ドラマの主人公にも決まっている戦国時代の遠江(とおとうみ、静岡県西部)井伊谷(いいのや)城主、井伊直虎(なおとら)。その「直虎」を名乗ったのは女性ではなく、いとこにあたる別の男性だった可能性を示す史料が新たに確認された。14日、井伊家の史料を収集する井伊美術館(京都市東山区)が発表した。

     (中略)

 これまでの通説では、直虎は、井伊谷城主、井伊直盛(なおもり)の娘の次郎法師(?~1582)が名乗って家督を継ぎ、後に徳川家の重臣となる井伊直政の養母となったとされてきた。

 発見された史料「守安公書記(もりやすこうしょき)」(全12冊)には、今川氏真(うじざね、義元の子)の配下にあった井伊家について記されており、井伊谷の領地が直盛の義理の兄弟・新野左馬助親矩(にいのさまのすけちかのり)の甥(おい)にあたる井伊次郎に与えられたとの記述があった。

「おんな城主直虎」は男だった? 大河主人公に新史料



   NHK「ケチつけんなや」
   朝日「史実なんだからしょうがないだろ」

…ってこと。w


リンクがキレてたら…

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2016.12.19 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

板垣退助って大河ドラマの主人公にふさわしい?

という記事を書いたが、12月13日放送の「林修の今でしょ!講座」の「大河ドラマの主人公にしたい偉人講座」で、磯田道史氏が板垣退助とならんで、上杉鷹山(治憲)をあげていた。

上杉鷹山は、破産しかけた米沢藩を建て直し、日本でもっとも古く(1795年)公娼制度を廃止した名君であるが、大河ドラマにするにはマズイところがある。それは、鷹山の正妻が知的障がい者であったということである。

鷹山は、もともとは日向(宮崎県)高鍋藩主・秋月種美の次男であり、9歳のとき、米沢藩主・上杉重定の養嗣子となった。16歳のとき家督を継ぎ、18歳で重定の二女で2歳年下の幸姫(よしひめ)と婚礼をあげるが、彼女に知的障がいがあった。鷹山は、幸姫を邪険にすることなく、30歳で彼女が亡くなるまで、雛遊びや玩具遊びの相手をし、仲睦まじく暮らした。

この時代、家付き娘と結婚しても、子どもが産まれなかったら、その娘を家から追い出すことができた。酷い話だが、『東海道四谷怪談』のモデルとなった『四谷雑談(ぞうたん)』もこの手の話だ。岩と結婚して田宮家の養子となった伊右衛門は、岩に暴行を働き、家から追い出してしまう。しかし、それは、伊右衛門の上司・伊東喜兵衛の陰謀で、自ら妊娠させた花を伊右衛門に押し付けるためだった。そのことを知った岩は失踪してしまい、その後、田宮家と伊東家に不幸が続くという話だ。

現代でも、子どもに知的障がいがあると、妻に任せきりにしてしまったり、ひどいと離婚(もちろん子どもの養育は放棄)してしまう男がいるということを考えたら、鷹山は立派である。しかし、ドラマでは、健常者である女優が知的障がい者を演じることになるので、諸方面からの抗議が予想される。NHKはそういうことを嫌うので、鷹山は大河ドラマの主人公にはなれないだろう。

ちなみに、父である重定も、娘に知的障がいがあることを知らなかったようで、娘の遺品を手にして初めてそのことを知り、不憫な娘への治憲の心遣いに涙したという。現代社会では信じられない話だが、家督を譲ってからは米沢に隠居し、江戸藩邸の娘とは幼少時から顔を会わせていなかったそうだ。

幸姫が子どもを産めないので、鷹山は、29歳のとき、10歳年上のお豊の方(浄鏡院)を側室とした。2人の男児が生れたが、2人とも早世してしまい、養父の実子・治広に家督を譲っている。重定が、実子がいるのに、鷹山を養子に迎えたのは、鷹山が、幼少のころからたいへん頭が良いことが知られていて、藩財政立て直しのため、ぜひとも養子にしたかったからだ。

鷹山のように、公私ともに立派な殿様というはめずらしいが、上のような理由で大河の主人公にはなれないだろう。

2016.12.14 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

12月13日放送の「林修の今でしょ!講座」で「大河ドラマの主人公にしたい偉人講座」という講義wを磯田道史氏がしていた。

歴史学者・磯田道史が教える『大河ドラマの主人公にしたい偉人講座』 数々の江戸時代に関する著作が映画化されるほどの人気歴史学者・磯田先生が、あまり有名ではないが、大河ドラマの主人公に推したい偉人をプレゼンする新企画!今年は真田幸村、再来年は西郷隆盛が主人公として登場する大河ドラマだが、果たして磯田先生が推したい偉人とは!?教科書には載っていない魅力やエピソード、面白い裏話を熱く語る。日本一面白い歴史講座

『大河ドラマの主人公にしたい偉人講座』&『カッコいい美文字の書き方講座』

磯田氏は、大河ドラマの主人公にふさわしい歴史上の人物として板垣退助と上杉鷹山をあげていたけど、上杉鷹山はともかく、板垣退助って大河ドラマの主人公にふさわしいのか?


磯田氏は板垣退助をあまり身分の高くない武士のように言っていたが、板垣家(乾家)は、父の代まで300石取りの上士であり、退助のとき220石まで減らされたが、大身であることに変わりはない。

土佐藩で上士と下士の身分差が激しいことは、坂本龍馬の伝記などを読めばわかる。退助自身は、谷干城らとともに、上士でありながら下士と親しかったのは事実だが、下士でないことは明らかだ。

そもそも板垣家は、武田信玄の重臣だった板垣信方の子孫で、訳あって乾姓を名乗っていたのであって、大久保大和(近藤勇)率いる甲陽鎮撫隊と甲州勝沼で合戦する前に、甲州の人心掌握のため板垣姓に戻したのだが、そのことにはいっさい触れてなかった。

あと、日光東照宮に立てこもった大鳥啓介らに表に出て戦うことを説得し、新政府側には後水尾天皇親筆の額が燃えてしまうと総攻撃を遅らせ、日光東照宮が焼失することを防いだ話とか、会津戦争での会津側戦死者の供養を許すなど、カッコいい話がいっぱいあるのだが、それらはスルーだった。


板垣退助といえば、「板垣死すとも自由は死せず」が有名だが、これは1882年の岐阜事件で暴漢に襲われたときに発した言葉とされている。「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言ったと記録されているので、事実らしい。「痛い! 死ぬのか?」と叫んだのを「板垣死すとも…」と新聞記者が勝手に書いたというのはウソのようである。w

翌年(1883年)、伊藤博文らの甘言に乗り、欧州留学に行くのだが、費用を政府からもらったことで、自由民権運動を裏切ったかのように言われた。磯田氏はこのことを強調していたが、彼が留学している間に、自由民権運動が士族民権→豪農民権→農民民権と変化し、それに対する政府の弾圧も激しさを増した。彼の帰国後、加波山事件が起きた(1884年10月)。退助は、運動の過激化を嫌って、自らが党首である自由党を解党してしまう。その2日後に秩父事件が起こるのだが、運動への裏切りはむしろこっちの方で、この話もスルーだった。

このあたりの事情をちゃんと扱ってくれるのなら良いのだが、大河ドラマの傾向としては主人公の美化が激しいので、運動を過激化させた方が悪いかのように扱われるのではないかと心配してしまう。むかし放送した「獅子の時代」では、主人公(加藤剛と菅原文太)は架空の人物だったが、秩父事件を好意的に扱っていたぞ。


…というわけで、オイラ的には板垣退助は大河の主人公にふさわしいとは思えないのだが、みなさんはどうだろう。

2016.12.14 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

前者=現代の(女性)政治家と、後者=歴史上の(女性)政治家では、政治であつかう対象がぜんぜんちがうので、比較しても意味がないような気がする。



国家の範囲がちがっていて、近代国家(広義国家)は、支配者だけでなく、被支配者も国家の構成員となっている。政治家も、支配者だけでなく、被支配者についても気を配らなければならない。だから、自分の選挙区の住民から陳情を受け、彼らに対する政策を政府に働きかけたりする。ネットで「保育園落ちた 日本死ね」という記事が話題になったら、保育行政について厚生労働省に質問をするわけだ。

これに対して、前近代国家(狭義国家)は、基本的には支配者だけの国家であり、支配者にだけ気を配ればよい。北条政子は、御家人間の力関係と、朝廷と幕府の関係だけ見ていればよく、日野富子は、守護大名の力関係と、京都の町衆や京都周辺の国人層くらいを見ていればよかった。政子にとって下人・所従=荘園にいる隷属農民、富子にとって形成されつつあった惣村に住む農民、そして、それ以外の被支配民に対して、何かをしなければならない理由はなかった。

歴史上の人物が自分と同じような人間だと思うこと自体がそもそものマチガイで、まったく異なった思考や感性の持ち主と考えた方がよい。歴史教育とは、本来、そのようなものなのだが、大河ドラマのような疑似歴史ドラマのせいで、誤った歴史観がこの国には蔓延しているようだ。

2016.12.07 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |



昨夜(12/6深夜)に再放送された「戦艦武蔵の最期 ~映像解析 知られざる“真実”~」を観た。

人類史上最大の戦艦でありながら日本海軍のトップシークレットとして、その存在やデータを徹底的に隠蔽されてきた戦艦「武蔵」。太平洋戦争の真っ只中に米軍機の猛攻を受け壮絶な最後をとげたとされている。去年3月、フィリピン沖の海底1000mの深海で発見され、アメリカのプロジェクトチームによって初めて映像が記録、公開された。こうした記録映像やNHKが独自に入手した新資料の詳細な分析から、いま、歴史の定説を覆す武蔵の実像が次々と浮かび上がってきている。日本の最高技術を結集し“不沈艦”とまで言われた武蔵だが、実は決定的な脆さを抱えた構造の艦であったことなど、知られざる実態が明らかになりつつある。番組では、NHKが開発してきた映像解析技術と新資料から「武蔵の実像とその最後」を完全再現。わずかとなった元乗組員の生存者や、世界の軍事専門家たちと共に、歴史の闇に埋もれてきた戦艦武蔵の真実に迫る。

戦艦武蔵の最期 ~映像解析 知られざる“真実”~

12/4夜の本放送後、この番組を観たネトウヨがキレて必死に反論していたので、ぜひとも再放送を観たいと思っていた。わが家では、母親が裏番組のドラマ(織田裕二ではなく、玉木宏の方)を観ており、もう一つのドラマも録画していたので、観れなかった。w

上記の「決定的な脆さ」とは、遠距離からの砲撃に耐えられるように設計されていたが、航空機による真横からの魚雷攻撃は想定しておらず、とくにリベットで繋ぎ合わせた装甲盤が魚雷攻撃で破壊され、そこからの浸水で沈没したということ。当時の技術では分厚い装甲盤を溶接することができなかったからだ。しかも、そこが弱点であることは、同型の大和が1発の魚雷攻撃で装甲盤の繋ぎ目のリベットが緩んだことで、知られていた。しかし、海軍上層部は、弱点を知りながら、対策をとろうとしなかった。


これに対して、ネトウヨたちが、日本は世界でもっとも早く「大艦巨砲主義」から脱していたとか、アメリカの戦艦ミズーリだったらもっと早く沈没していた、などと騒いでいた。

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2016.12.07 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

伊東乾氏が昨日の記事

歴史は科学で学ばないとw

をもとにしたオイラのツイートに反論?してきたような、そうでないような。


「奈良盆地、河内平野、巨椋池はどうなんだよ!ボケ!」ってことかな?

しかし、下図を見ると、古墳時代の豪族も古墳も奈良盆地や河内平野のど真ん中は避けているように見えるが…。



また、平城京は奈良盆地の北端、下図にはないが、藤原京は南端。やっぱり盆地のまん中(大和川流域)は避けているように見える。



難波京は上町台地の北端(大阪城の近く)だし、仁徳陵と応神陵も段丘上。平野のまん中にはない。

巨椋池は、宇治川・桂川・木津川が流れ込んでいて、大雨が降ると周辺は洪水に見舞われていた。



豊臣秀吉が、堤を築いて宇治川の流れを変え、洪水を防ぐとともに、水運に利用したのだった。

2016.11.30 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(2) |

伊東乾氏の書いた記事を読んで、たいへん残念なキモチになりました。w

 古代人にとって金属器は極めて貴重で、そんじょそこらに落ちているようなものではなかったわけですね。縄文時代は言うまでもなく、弥生、古墳、飛鳥時代でも、日本の農民は基本、オール木製の農機具が基本だったと考えて外れない。

 飛鳥から奈良期にかけて、日本全国の土地支配体制が体系化、一新されていきます。全国に「国衙」つまり中央支配の国府が置かれ、彼らが地方の農民を支配、徴税するシステムを確立していった。

 でも、日本全国の農民は、どうしてそんな、奈良や飛鳥の中央貴族の言うがままに搾取されていたのか。反乱を起こして税金など拒否すればいいじゃないですか。

 古代中央貴族はテクノロジーの権利料で地方農民を搾取していたんですね。現実には金属製の農機具、これを貸与した。

 古代農民は、木製とは比較にならない高能率で仕事が進む農機具を毎朝役所から借り、夕方には洗って戻さねばならなかった。

 木炭その他を用いた、大陸由来の冶金テクノロジーの権利料支配が「班田収授」を支え、また鉄器だけでは耕地面積は広がらないので「三世一身法」などで開墾、新田開発を促した。

 しかし、公営の土地以外では金属製農具の使用は禁じられていたので、私営田では相変わらず、非能率な木製農具が使われていた。

 日本国内で古代から栄えた土地、大阪でも京都でも奈良でも、あるいは博多でも大宰府でも秩父でも常陸でも相馬でも同じことですが、木製の粗製農具でもどうにか耕作ができるくらい、軟弱な地盤でなければ経済そのものが成立することがなかった。

博多の陥没と地震災害が教える貴重な日本史 日本人はなぜ軟弱な地盤の上に住んでいるのか

《縄文時代は言うまでもなく、弥生、古墳、飛鳥時代でも、日本の農民は基本、オール木製の農機具が基本だったと考えて外れない》←これはマチガイ。

鉄は、朝鮮半島からの輸入品だったが、日本国内で火入れ・加工されて利用された。北部九州では紀元前1世紀頃にかなり普及しており、それ以外の中国・四国・近畿以東でも紀元後1世紀には普及していた。6世紀以降になると、国内での生産がはじまった。

《古代農民は、木製とは比較にならない高能率で仕事が進む農機具を毎朝役所から借り、夕方には洗って戻さねばならなかった》←これは司馬遼太郎の『街道を行く』第7巻(朝日新聞社、1979年)に載っているんだけど、史実をもとに書いたのかよくわからない。

林正之「古代における鉄製鍬先の研究 ―7世紀後半~11世紀の関東・東北を中心に―」を読むと、最後の方に「鍬先出土遺跡一覧」が載っていて、鍬先の出土は、1980年代以降がほとんどで、1970年代以前がほとんどないことがわかる。司馬の文章は、このような出土状況のとき、書かれたものだと思った方がよさそうである。

林論文によると、8~9世紀(奈良時代から平安時代初期)、鉄製鍬先の生産・流通に国家や国家に結びつく勢力が関与していたことは、規格が統一されたU字型の鍬先が南東北と関東で出土することから分かっているが(北東北では独自の鍬先が使われ続けた)、鉄製鍬先がついた農具が、図書館の本のように、いちいち貸出・返却されていたかは分からない。

それ以前は、日本各地でその地域ごとの鉄製鍬先がつくられていて、国家と無関係に利用されていたようである。また、9~10世紀になると、製鉄のラッシュが起こり、鉄製鍬先の生産・流通が国家の手を離れてしまったようだ。

基本的なことだが、農業は、江戸時代以降、沖積平野で行われることが多いが、それは大河の治水・利水が可能になったからで、それ以前は、谷間や中小河川に沿った場所でしかできなかったのだ。軟弱地盤の沖積平野に人が住むようになったのは、江戸時代以降であり、それ以前は、住んでいても、洪水に遭いにくい自然堤防の上に住んでいたようだ。

じつは、谷間や中小河川の流域も、軟弱地盤なんだけどね。そもそも稲作って、地下水位の高い湿田で行われてきたから(今は地下水位の低い乾田でもできるが)、国家や権力者に強制されようが、されまいが、軟弱地盤のところでやらないといけなかったのでは?

そのほかにもツッコミどころがある。

 他方、奈良時代の歴史を学ぶと「和同開珎」が「日本で初めて鋳造・発行された銭貨」として教えられます。和銅元年=708年、つまり奈良時代初期になって初めて「日本(=この場合は埼玉県秩父市・秩父郡)で銅貨を鋳造した」とある。元号まで変えて大変な騒ぎようです。

現在では、「和同開珎」以前に「富本銭」(683年)、それより前に「無文銀銭」(667年~672年)が発行されていたことが知られている。「富本銭」の方は、1999年に飛鳥池工房遺跡から33点も出土して大々的に報道され、高校日本史Bの教科書には11冊中10冊に載っている。伊東氏は、このような記事を書く前に、調べるべきではないだろうか。

 歴史は科学で学ばないと、単なる事項の羅列で知恵になりません。以上は実は、私自身が小学生時代、「青銅器」と「和同開珎」に疑問を持ったとき、史学科出身の母から教わった骨子に肉づけして書いてみました。

いやはや、それでは、現在の考古学や歴史学の知識を知らなくてもしょうがないですね。情報が古すぎる。てか、歴史学や考古学には進歩がないとでも思っているのだろうか? 科学で学ぶ前に、歴史の勉強をしてください。w

2016.11.29 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

歴史学者・田中希生氏は「真」という言葉が好きだな。






以前、事実と真実のちがいを論じたことがあった。

「ほんとうのこと」という意味では同じだが、「事実」は価値や意味を排除し、「真実」はそれをともなう。「事実」は、現実的・実在的なものとして想像・幻覚・可能性などに対し、また経験的に与えられている現象として理想・当為・価値に対する。これに対して、「真実」は、“まこと”の事実なので、理想・当為・価値が入り込んでいるのだ。

事実と真実

歴史を静態的=共時態的に捉えた場合(これは歴史学というよりも哲学だが)、今この時点での事実と真実があることになる。一方、歴史を動態的=通時態的に捕えた場合(これが歴史学では一般的だ)、「史実」という言葉がある。これには2つの意味があって、過去に起きた出来事という意味と、歴史家が記述した出来事という意味だ。

過去に起きた出来事は、個人に認識できないくらい多く、それ自体は無秩序で意味を持たない。一方、歴史家が記述した出来事は、歴史家の歴史観に基づいて選択され、歴史像のなかに組み込まれ、一定の意味を付与されている。

19世紀の歴史家は、過去に起きた出来事としての史実が積み重なれば、自動的に歴史像が描けると信じていた。いわゆる素朴実証主義だ。しかし、20世紀に入って、歴史像は何らかの歴史観なしには描けないことが明らかになった。その歴史観として、最大のパワーを持ったのがマルクスの唯物史観=史的唯物論であった。

ところが、1970年代に明らかになった社会主義の失敗、1980年代の東欧革命、そして1991年のソ連崩壊で、唯物史観の有効性に問題が出てきた。その結果、歴史学者は再び実証の方向に舵を切ったわけだが、それが気にくわない歴史学者はいる。

田中希生氏は、理想・当為・価値を排除しようとする現在の歴史学のあり方に憤りを感じているようだ。そのキモチは分からないでもないが、「オフコースなんて聴いてるお前は問題意識のないヤツだな」などと罵られたことがあるオイラとしては、いやいやそうなるだけの歴史的出来事の積み重なりがあるんだよ。←と言いたいね。

2016.11.26 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

《もしかしたら、[井伊]直虎は、「悪党」や「魔女」といった歴史学で用いられている概念を超越したところに位置しているのかもしれない》と書いた夏目琢史氏の

来年の大河のヒロイン井伊直虎はリアル「もののけ姫」だった! ―戦国時代を生きた女城主の数奇な運命

を丸島和洋氏が《これはどの箇所を見ても「歴史学」ではない》《より正確に言うと「学問」として評価すべき文章でもない》とボロクソに叩いていた。w


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2016.11.17 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

いよいよ大河ドラマ「真田丸」もクライマックス(大坂の陣)を迎えるようだ。

物語だと、信繁は梅(堀田作兵衛妹)と春(大谷吉継娘)としか結婚していないように描かれているが、実際の妻は4人いた。



最初の妻が堀田作兵衛の妹で、阿菊(すへ)と於市という2人の娘が生まれた。ただし、於市は後述する高梨内記の娘の子という説もある。阿菊は、作兵衛の幼女となり、信濃国長窪宿(長野県小県郡長和町)の本陣・石合十蔵重定(または道定)に嫁いだ。於市は、九度山に流された父に随行し、その地で死去した。

2人目の妻が、高梨内記の娘(ドラマではきり)で、阿梅という娘が生まれた。この娘がたいへんな美少女で、大坂夏の陣のとき、伊達政宗の重臣・片倉景綱の子・重長があまりにキレイだったので連れ帰ってしまった。のちに信繁の娘とわかったが、いまさら処罰できないので、側室とした。正室が亡くなった後、継室となった。のちに、守信が伊達家に仕官したり、阿菖蒲が片倉定広の正室となるのは、彼女のツテである。

3人目の妻が大谷吉継の娘で正妻の竹林院である。あくり、幸昌(大助)、阿菖蒲、おかね、守信が生まれた。あぐりは蒲生家の重臣・蒲生郷喜の正室となった。幸昌は、大坂夏の陣のとき、豊臣秀頼に殉死した。阿菖蒲は片倉(田村)定広の正室となった。おかねは武将から商人となった石川貞清の妻となり、その縁で貞清は竹林院を生涯にわたって援助した。守信は、片倉重長に引き取られ、片倉守信と名を改め、仙台藩士となった。

4人目の妻が豊臣秀次の娘・隆清院で、顕性院(なお)と幸信が生まれた。母子は、大坂の陣の際には瑞龍院日秀尼(秀次母・秀吉姉)の庇護を受け、捕えられたが、真田信之の助命嘆願で軽い処分ですんだ。顕性院は、佐竹義宣の実弟・多賀谷宣家の側室となり、宣隆が亀田藩主になり岩城宣隆と改名した際に継室となった。幸信は、姉のツテで宣隆に引き取られ、三好幸信(秀次が三好と名乗っていた関係で)と名を改めて出羽亀田藩士となった。

オモシロイのは、早世した於市と秀頼に殉じた幸昌を除いて、子どもたちが(男子も)みな長生きしていることだ。将軍家に弓引いた者の子孫とは思えないくらい寛大な処分だったのは、「日本一の兵」の子として珍重されたかららしい。さすがに明治になるまで、真田を名乗ることはできなかったけどね。

2016.10.04 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

7/24の「真田丸」、秀吉がお漏らし+同じことを何度も言う+シキイで転ぶと、認知症の症状が現われるって展開だった。

でもね。たとえば、アルツハイマー型認知症の場合、同じことを何度も言う=進行性の記憶障害は初期の症状で、お漏らし=尿失禁は中期の症状、シキイで転ぶ=歩行困難は後期の症状なので、順番が変。伯母がアルツハイマー型認知症だが、進行性の記憶障害が始まったのは2007年だけど、失禁と歩行困難がはじまったのは2014年になってから。

しかも、秀吉が失禁したのは、記録によると文禄3(1594)年だから、けっこう早い段階でだ。


じつは、失禁と認知症(記憶障害)と歩行困難が同時に起こる病気がある。正常圧水頭症がそうだ。だから、「真田丸」の展開では、秀吉は正常圧水頭症だと思われる。ちなみに、特発性正常圧水頭症だと、3つの症状が同時には現われない。今ならシャント術といって、髄液を外に逃す方法があるが、当時はできないので、どんどん進行してしまうだろう。

ところで、前回の秀次事件が起きたのは文禄4(1595)年なので、正常圧水頭症による認知症で妄想をいだいた秀吉によって切腹させられたことになる。さらに39人の妻子も処刑されているので、こっちのほうが哀れだ。

2016.07.26 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(2) |

大河ドラマ「真田丸」について、放送開始当初はいろいろ文句をつけていたけど、だんだんメンドくさくなってきたので、ここには書かなくなっていた。

で、ひさびさに書くのは、「殺生関白」豊臣秀次がそろそろ切腹するので、そのことについて三谷幸喜が書いているので、それを批判しようと思ってのことだ。

 歴史ドラマでは、秀次が極悪人として描かれることはあまりない。有能ではないが、人当たりのよいお坊ちゃん気質。一時は秀吉の後継者となったが、秀吉の息子秀頼が誕生したことで、立場が危うくなる。酒に溺れ、自暴自棄になって悪行三昧(ざんまい)を繰り返し、ついには切腹に追い込まれる、というパターンが多い。最終的には彼の中の残虐な性格が露わになり、「殺生関白」として死んでいく。

     (中略)

 ところが最近の研究では、さらに違う説も出ている。歴史学者矢部健太郎さんの著書「関白秀次の切腹」によれば、秀次は切腹に追い込まれたのではなく、自ら死を選んだのではないか、というのだ。秀吉は甥(おい)の秀次を死なせるつもりはなかったし、秀次に死ななければならない理由もなかったという新しい見方だ。

(三谷幸喜のありふれた生活:809)関白・秀次の最期を思う

矢部説の最大の問題点は、秀吉は、秀次を死なせるつもりはなかったはずなのに、秀次の妻子39人を虐殺したことだ。秀次を死なせるつもりがなかったのなら、そんなことする必要はないはずだ。でも、してるんだから、殺す気まんまんだったのだろう。

そもそも「殺生関白」という不名誉な名称を広めたのは、「信長公記」で有名な太田牛一の「太閤さま軍記のうち」だ。正親町上皇の喪が明けないうちに鹿狩りをしたとか、刀の試し切りのため辻斬りをさせたとか、百姓を鉄砲の的にしたとか、ボロクソに書かれている。この本は、秀吉の偉業を子・秀頼に伝えるために書かれた読み物なので、秀吉を正当化するため秀次を悪人として描いている。

「真田丸」では、これとは逆の意味で、秀吉を正当化するんだろうね。秀吉は秀次を殺す気がないのに、こんなことになってしまいました!って展開なのだろう。しかし、妻子の虐殺は有名な事件なので、なかったことにはできないはずだ。どうするんだろう。w

小和田哲男氏は、秀次事件の背景に、豊臣政権の中央集権化をめざす石田三成ら「五奉行派」と、分権化をはかる徳川家康ら「五大老派」の対立があり、それに秀次が巻き込まれのではないかと説明している。

ぜんぜん関係ないけど、石田三成・大谷吉継を良く描くために、千利休を悪人として描いてましたね。利休の協力者であった大和大納言・秀長も利休を殺す側にまわっていた。実際には、秀長が亡くなり、協力者を失って孤立した利休を三成らが切腹させたのだけれどね。権力闘争おそるべし。w

2016.07.14 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(2) |

以下は、「朝日新聞 DIGITAL」に載った特集【慰安婦問題を考える】「慰安所の生活、たどる 韓国の故文玉珠さんの場合」である。



(慰安婦問題を考える)慰安所の生活、たどる 韓国の故文玉珠さんの場合
2016年5月17日05時00分

 昨年末に慰安婦問題の解決について合意した日韓両国外相は共同記者発表で「多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題」と述べた。日本軍の慰安婦となった女性らが戦時中、慰安所で送った生活については、終戦直後の戦犯裁判資料や1990年代以降に口を開いた元慰安婦らの証言に残され、場所や時期、戦況によってさまざまだったとみられる。ただ、その境遇や移動経路が、本人の証言をもとに軍の記録や関係者の日記、現地調査などで詳細に追跡できる例はそれほど多くない。今回はその一例として、韓国の文玉珠(ムンオクチュ)さん(1924~96)が語った部隊名や地名を手がかりに、多くの日本兵らが犠牲となったかつての激戦地ミャンマー(ビルマ)を訪ね、足跡をたどった。

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2016.05.30 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

織田信長を呼び捨てにしたから豊臣秀吉は悪い人と井沢元彦。w

 そして極めつきは1585年(天正13)秀吉から安治に宛てた手紙であろう。「秀吉の御意に違う侯輩(ともがら)、信長の時の如く少々拘(かか)え候へとも苦しからずと空だのみし許容においてはかたがた曲事(くせごと)たるべく候(秀吉の意思に背く者ども、信長の時代のようにかくまっても許されると思い込んでいると処分する)」というのである。信長の死後をわずか3年しか経っていない。この時点で秀吉は大恩人信長を呼び捨てにしているのである。まだ関白になったわけでもないのに、いかに親しい間柄宛ての手紙とはいえ、呼び捨てはないだろう。つまりこれが秀吉という男の本当の姿なのである。しかも秀吉自身が信長の時代のように甘くはないぞ」というからには、多くの人が抱いている「信長は残酷だが秀吉は優しい」というイメージも実は「大魔術」に乗せられたものだとわかる。

後世の人間まで騙し続けた不徳の男、豊臣秀吉の「大魔術」

昨夜の「真田丸」を見た人なら気づくと思うが、秀吉は1585(天正13)年に関白太政大臣となり、右大臣だった信長の官位をこえた。しかし、井沢は「まだ関白になったわけでもないのに」と書いている。秀吉の関白就任は同年7月11日のこと。脇坂安治に朱印状を出したのは、小和田哲男さんが以下に指摘しているように、それより後の閏8月13日のことだ。

 しつこいという印象は、その年[天正13=1585年]閏8月7日から9日、12日、13日と1日おきぐらいに連日のように安治宛に朱印状を出していることからもうかがわれる。その13日付の朱印状は内容面からも注目される。これは、秀吉の長浜城主時代、黄母衣(きほろ)衆の1人だった神子田半右衛門正治が秀吉に逆らったので分国追放を命じたときのものである。秀吉は、安治に神子田正治を匿わないよう指示しており、その中で、「信長のように甘くはない」と脅しているのである。秀吉が信長後継者としてふるまいはじめたとともに、信長を超えようとしていた秀吉の思いが伝わってくる。

書状で鬱憤晴らすねちっこい男? 子飼いの重臣に見せた秀吉の小物ぶり

井沢は、作家だが、歴史家ではないので、ろくに調べもしないで書いたのだろう。それはそれで恥ずかしいことなのだが…。

官位で信長をこえたから、秀吉は信長を呼び捨てにした。こえていようがいまいが、それだけで悪い人と断じた井沢元彦って何?w

2016.05.09 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(2) |

「このシステムがある限り、我々は、目立てないので、卒業します!」と登場人物の何人かが言い出しかねない今週の「真田丸」でした。w

北条・上杉の双方を信濃から撤退させることに成功した昌幸(草刈正雄)は、自らが大名となるべきか、あるいは国衆たちによる独立国家を作るべきか、大きな決断を迫られていた。いずれにしても、反目する室賀正武(西村雅彦)の協力が不可欠であった。一方、信繁(堺雅人)は、手段を選ばない父への割り切れない思いが消えない。梅(黒木華)の一言をきっかけに、信繁は誰にも思いもよらない「命を損なわない戦」のための策を練る。

第9回「駆引」

北条勢4万(郡内に侵入した1万を加えると5万)vs徳川勢1万という圧倒的不利な状況を家康がひっくり返して講和に持ち込むって話が完全スルーという、昌幸-信繁中心のお話でしたね。まさに、「主人公総取り」システム発動です。w

じつは、昌幸が家康についたのも、この大逆転があったから…。家康は1万の兵力を、新府城に8000、鳥居元忠らの2000に分け、この2000が郡内に侵入した北条勢1万を黒駒合戦で破ったので、信濃勢が一斉に家康になびいたのです。このとき、木曽義昌が家康について佐久郡・小県郡の国衆の人質を家康に渡したので、昌幸をはじめ、両郡の国衆が家康についたのですよ。

小諸城は、ドラマでは信繁の献策で昌幸が落としたことになっていましたが、家康の命を受けた依田信蕃(この人はドラマではいないことになっている!)が落としているんだから、まったくもって「主人公総取り」システムです。w

じつは、沼田領に攻め込んだ北条勢5000に奪われた城を矢田頼綱と信幸がわずか800で取り返す大活躍をしているんだけど、昌幸-信繁ラインから外れているので、完全スルー。「主人公総取り」システムから外れると、身内でも目立てません。orz

このあと、ドラマどおり、家康と北条が和睦をするんだけど、5万vs1万の戦いで1万が押し返したわけだから、家康の圧勝だったわけです。この和睦で、真田の押えている沼田領が微妙なことになるわけですが、昌幸はのらりくらりして北条に渡そうとしません。そして、徳川の支援を受けながら、上田城を築城します。で、じつは、この間に上杉景勝(その背後には羽柴秀吉がいる)と通じるわけです。なかなかですね。

この時期、とくに何もしていない信繁と、ほどほどに活躍している昌幸。主人公を目立たせるために多くの登場人物が割を食っています。なぜか48グループのヲタの目線で見てしまいますね。(爆)

2016.03.07 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |