4月8日放送のNHK「西郷どん」が叩かれている。

  なんでこんなバカな放送をしたのだろうか。「西郷どんと斉彬 密着120日」と称して出来損ないのメイキング放送だ。そもそも時代劇とは何百年も前の出来事を、それらしく俳優に扮装させ、盛大な大ウソをついて、見ているお客をその時代に引きずり込む行為である。1か所でも現代が画面に素のままで出てきたら、その瞬間に白ける。騙されてあげようと努力している視聴者たちに、わざわざ、「ちょん髷姿のこの男たちは、実は背広を着て仲良くやっている俳優仲間なんだよ」と地を見せてイメージを壊す意味は全くない。

西郷どん・斉彬の「地」見せられすっかり鼻白・・・時代劇のお約束破りにへそ曲がり視聴者は「もう見るの止めにするワイ」 <大河ドラマ 西郷どん スペシャル~鈴木亮平×渡辺謙が対談>(NHK総合)

オイラ的には…


島津斉興・斉彬親子のロシアン・ルーレット


橋本佐内の瀉血


で、すでにトンデモ認定していたんだが…。

ちなみに、ロシアン・ルーレットは「ディア・ハンター」のパクリ、瀉血は、18世紀以降は効果に疑問をもたれ、この時代(19世紀半ば)には行われなくなっていた偽医療と放送直後から叩かれていた。w

大河ファンのオヤジ、オバちゃんは、メイキングを放送したから怒るんじゃなくて、時代考証がテキトーだから怒るんだと思う。

2018.04.10 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |



BS12で「王女未央」という中国時代劇をやっていて、「世界史」に疎い妹が時代背景がまったくわからないので教えてくれというので、調べて教えてあげた。ちなみに、妹が「世界史」に疎いのは、不勉強だったからではなく、高校の世界史教師がガチサヨで、世界史の授業をせず、サヨク話を開陳していたからであって、ソイツの責任である。



王女未央 BIOU

中国史の「南北朝」時代は、北魏による華北統一(439年)から隋による中国統一(589年)までだが、均田制を導入し、大同から洛陽に遷都して漢化政策を行った北魏の孝文帝は、どの「世界史」の教科書にも載っている。しかし、彼の治世の前半は、馮皇后(太皇太后)が支配しており、均田制は彼女によって導入された。このドラマの主人公・李未央=馮心児は馮皇后がモデルである。

ドラマでは、李未央は北涼王の娘ということになっている(下図)。



しかし、下記のとおり、馮皇后は北燕の皇族であった。

主人公の李未央(馮心児)のモデルとなったのは、北魏の文成文明皇后(馮太后)。父・馮朗の家系は五胡十六国時代から南北朝時代初期にかけて遼東を支配した北燕の皇族であったが、この北燕は北魏により滅ぼされ、馮朗は北魏に降って重用されていた。しかし馮朗は罪を問われて誅殺され、身寄りをなくした幼い馮太后は、北魏の太武帝の左昭儀(後宮における称号で皇后に次ぐ地位)だった叔母の馮氏に従って後宮入りした。その後、太武帝の孫、第5代皇帝・文成帝の皇后となった。

見どころ

このドラマのキャッチフレーズに「衝撃の再生回数230億超え!」とある。BS12は昨年も「武則天 -The Empress-」(唐の則天武后の時代劇)を放送していたが、「中国時代劇歴代視聴率No.1」とある。



武則天 -The Empress-

どうも、美人で頭が良く苦難を乗り越えて出世する女性のドラマが中国人は好きらしい。w

2018.03.22 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |



結城秀康は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。徳川家康の次男として生まれ、越前北ノ庄藩初代藩主で越前松平家宗家初代。

3/11(日)に放送されたテレ東「池の水ぜんぶ抜く」で、大阪府枚方市山田池公園の続編(最初の放送は昨年11月)に、ギギという魚が登場した。



正式にはギバチ(義蜂、学名:Pseudobagrus tokiensis)という。ナマズ目ギギ科に分類され、地方によりギギュウ、ギンギョなどと呼ばれる日本固有種だ。

なんで、それが結城秀康なのかというと、彼の幼名は「於義伊(おぎい)」あるいは「於義丸(おぎまる)」といい、この魚と顔が似ているから付けられたというのだ。母親の身分が低かったとか、正室・築山殿の悋気を恐れたためとかいわれているが、要は家康に嫌われていたらしい。だから、長男・信康が切腹させられた後も、三男の秀忠が後継者となり、彼は豊臣秀吉の養子(実際は人質)に出された。秀吉に実子・鶴松が誕生すると、こんどは結城晴朝の養子となった。関ヶ原の戦いで、上杉景勝への抑えとして宇都宮に陣取り、その功により越前北ノ庄68万石の大名となった。

しかし、家康の後継者になれなかったのは無念だったらしく、つぎのような話が残されている。秀忠が徳川氏の家督を継いだとき、秀康は伏見城代を務めていた。出雲阿国一座を伏見城に招いて、阿国の歌舞伎を絶賛した後、「天下に幾千万の女あれども、一人の女を天下に呼ばれ候はこの女なり。我は天下一の男となることかなわず、あの女にさえ劣りたるは無念なり」と漏らしたという。

そんな秀康に秀忠も気をつかっていたらしい。鉄砲を所持したまま江戸に向かおうとして碓氷峠の関所で止められたとき、秀康は、自家が徳川家中で別格扱いであるのに、それを知らずにいた不届きな関守を成敗するとした。関守は江戸に伺いを立てたが、秀忠は、秀康に殺されなかっただけ幸いであったと言って事態を収めた。

そんなわけで、ギギを見ると、結城秀康を思い出してしまうのだ。w

2018.03.13 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

井上靜氏が「建国記念の日」を批判していた。

 「建国記念の日」とは建国の日を記念したのではなく記念した日という意味だから、屁理屈ともいうべき祝日である。戦前、初代天皇が即位した日を「紀元節」として祝日としたが、この初代天皇は実在しないし、即位した日がいつなのかも暦法が何だったのか不明なのだから現代の暦に換算して2月11日という話はありえず要するに捏造であった。

 また、近代国家とは実定法秩序の確立が条件であるから、これが日本の場合だと最初は律令制度を敷いた時である。

 それなのに「紀元節」を強引に戦後も祝日とするため、建国の記念をする日ではなく戦前に記念した日ということで「建国記念日」ではなく「建国記念の日」としたわけだ。

神武天皇はいなくてもイエスキリストはいた

まさにそのとおりなのだが、《近代国家とは実定法秩序の確立が条件であるから、これが日本の場合だと最初は律令制度を敷いた時である》とはオドロキだ。律令国家は、古代国家なのであって、近代国家ではない。実定法秩序は、近代国家の必要条件だが、十分条件ではない。実定法秩序は5000年前のシュメール文明から存在しているわけだが、「目には目を、歯には歯を」は近代法ではないだろう。


「法の支配」の確立をもって、近代国家の成立とするのがふつうである。「法の支配」とは、為政者が好き勝手に支配する「人の支配」を否定し、人民が法を定め、為政者はそれに従って統治するというものだ。イギリスで確立し、アメリカで違憲法令審査権ができて保障されたとされる。

よく「法治主義」と間違えられるが、「法治主義」は、「悪法も法なり」という言葉で示されるように、法の実質は問わない。「法治主義」では、ニュルンベルク法を制定すれば、ユダヤ人は差別し放題となる。これに対して、「法の支配」は法の実質=人権擁護を原則としている。

そうなると、日本の「法の支配」の確立は、不十分ながらも「臣民の権利」を定めた大日本国憲法(明治憲法)制定以後となる。


そもそも建国=国家の成立は、支配階級の共通利益を守る暴力装置(=狭義国家)ができあがればよいわけである。日本の場合、西暦57年に「漢委奴国王」が漢の光武帝に使者を送ったころには、このような国家が北九州には成立していた。この領域が日本の西半分くらいに広がるのが、邪馬台国連合が女王卑弥呼を共立して魏に使いを送った248年頃である。これが日本における古代国家の成立なのだろう。

ちなみに、初代天皇とされる神武天皇は「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称されたが、10代の崇神天皇も「御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称している(日本書紀)。この人の大叔母が、箸墓古墳の主で、卑弥呼のモデルではないかとされている倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)である。

2018.02.13 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |



大河ドラマ「西郷どん」が始まったが、「登場人物」を見る限り、伊地知正治はこの大河にも登場しないようだ。

登場人物

伊地知先生については、さしこ(指原莉乃)をモチアゲル記事で紹介したことがある。

西郷隆盛の参謀に伊地知正治という人がいた。彼は、たいへんな怖がりで、あるとき、仲間で酒盛りをしていたら、大きな音がした。どうも客が酔ってけんかをしたらしかったが、気がついたら、伊地知がいなくなっていた。死客の乱入を恐れて、庭の灯篭の後ろに隠れていたのだ。仲間はそんな伊地知を笑ったが、西郷だけが、そんな伊地知先生だから、命を預けられるのだ、と言ったという。

事実、伊地知は、戊辰戦争で活躍し、白河の戦いで10倍の奥羽越後列藩同盟軍に火器を集中的に使って撃破したり、会津攻めでいち早く峠を占拠して会津藩の反撃を封じてしまった。彼は、なるべく少ない犠牲で勝利することに心をくだいたのだが、それは彼が生まれながら体が弱かったからだと言われている(そのため早死にしてしまった)。自分が弱いから、強い敵をどう倒すか、知恵を使ったのだった。

りりぽんがポスト指原w

ここには書いてないが、西郷や大久保利通が結成し、のちに「精忠組」と呼ばれる薩摩藩内組織の最初のメンバーの一人でもある。

なんでこの人物が登場しないのかというと、どうも主人公の活躍とされていることがじつはこの人の手柄だったりするので、登場されると困るからなんじゃないだろうか? 「八重の桜」の禁門の変で、会津軍を薩摩軍が助けに来るシーンがあった。薩摩軍を率いていたのは西郷だけど、作戦を立てたのは伊地知先生でしょ。w

2018.01.21 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

大河ドラマ「女城主 直虎」は、「信長、みんなで殺そうぜ!」って展開になっている。w

武田家の滅亡により念願の駿河を手に入れた家康(阿部サダヲ)。信長(市川海老蔵)は甲斐からの戻りがてら富士山など駿河・遠江の名所を観光したいと家康に申しつける。その報せを聞いた万千代(菅田将暉)は信長をもてなすため奔走することに。一方井伊谷では、龍潭寺の井戸端で謎の捨て子が見つかる。直虎(柴咲コウ)はその子を保護し、身元を調べようとする。物見遊山を楽しんだ信長はもてなしのお礼として、家康を上方へ招待し安土や京、堺へ案内したいというが、家康はその誘いを罠かもしれないと疑う。一方、直虎は氏真(尾上松也)から捨て子は明智光秀(光石研)の子どもであることを知らされる。さらに氏真は信長の饗応が罠であること、それを逆手にとって信長暗殺を企てていることを明智から聞いたと話す。直虎は、迷う家康と会って明智の企てを伝え、織田に代わって家康に天下を取って欲しいと言う。

第48回「信長、浜松来たいってよ」

信長が家康を暗殺とか、オカシナ話になってきた。ヤラレル前にヤルってことで、信長、みんなで殺そうぜ!ですか?w

本能寺の変については、諸説があるが、信長の周りにいた武将が、旧武田領の統治のため東国に出向いている間隙をついて明智光秀が決起した、という説が有力になってきている。ちなみに、黒幕論が盛んだが(家康黒幕論もあるw)、誰が黒幕でも光秀が決起しなかったらいずれも「絵に描いた餅」ってことで、説得力がない。

信長(市川海老蔵)による家康暗殺計画を知った万千代(菅田将暉)は直虎(柴咲コウ)に会い、明智光秀(光石研)の謀反が成功した折には家康(阿部サダヲ)を三河へ逃がす手助けをして欲しいと願い出る。この求めに応じた直虎は逃亡ルートとして堺からの海路を選択するが、その地で龍雲丸(柳楽優弥)や与太夫(本田博太郎)と久々の再会を果たす。その頃、家康は安土城で信長の歓待を受けていた。

第49回「本能寺が変」

よくわからないのは、光秀の謀反が成功したのに、家康が逃げるのか?ってこと。逃げる必要なんてないんだから、どうどうと本国に帰れば(・∀・)イイ!! この脚本家、小細工を弄する癖に、大きな絵が描けていない。ホントに残念な大河だ。


こんなツイートを見つけた。



リアリティのあるウソはドラマだが、リアリティのないウソはダメ・ドラマである。

2017.12.08 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

高大連携歴史教育研究会が発表した「当会提案の歴史系用語精選の提案(第一次)」が、教科書から「坂本龍馬」や「武田信玄」、「上杉謙信」が消えると話題になっている。

現在、文部科学省では2022(平成34)年から使用する高等学校の教科書において小中高のすべての科目で「主体的で対話的な深い学び(アクティブラーニング)」の導入をめざしています。ところが、高等学校の歴史教育では、従来、教科書に収録した用語の暗記中心の教育が行われることが多かった上、教科書の収録用語が改定の度に増大し、古代から始めた授業が近現代まで到達せずに終わることが多くみられました。その上、大学入試では、一部に思考力・表現力を問う記述式などの出題が増えてきたものの、多くの大学では依然として用語の暗記力を問う問題が出題され続けています。

このような現状の改善なしには、歴史的な思考力を育成する授業を大幅に増やすことは難しいと思われます。そこで、当会では、日本学術会議高校歴史教育分科会や日本歴史学協会歴史教育特別委員会とご一緒に、高等学校の歴史教科書と大学入試の歴史系の出題用語に関連した用語精選基準に関するアンケート調査を実施することにしました。ご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。

高等学校教科書および大学入試における歴史系用語精選の提案(第一次)およびアンケート実施

で、問題はどれだけ変わる(減る)のか?ということだ。

以下のものは、いわゆる『日本史B用語集』に載っている歴史用語だ。日本史Bの教科書は11冊あり、うち7冊以上に載っている用語は太字にした。戦国時代の政治分野に限り、経済・社会・文化にかんする部分は除いてある。ちなみに、オイラの持っている日本史用語集は「新課程」の用語集ではなく、いわゆる「ゆとり教育」時代の用語集なので、おそらく「新課程」ではもっと増えていると思ってほしい。

足利義稙、明応の政変、明応の地震、足利義澄、細川政元、細川晴元、三好長慶(三好氏)、松永久秀(松永氏);守護代、戦国時代、戦国大名、大名領国制(公領)、分国(領国);鎌倉公方、古河公方足利成氏堀越公方(足利茶々丸)、足利政知、扇谷上杉家、山内上杉家(上杉憲政)、北条早雲(伊勢長氏、伊勢宗瑞、伊勢盛時)、後北条氏、北条氏綱北条氏康、武田信虎、武田信玄(晴信)、武田氏、上杉謙信(長尾景虎、長尾氏)、川中島の戦い、今川氏(織田信長)、斎藤道三(斎藤氏)、浅井氏、朝倉氏、松平氏、尼子氏、大内義隆、大内氏陶晴賢(陶氏)、毛利元就(毛利氏、小早川氏)、長宗(曽)我部元親(長宗我部氏)、河野氏、竜造寺氏、大友氏島津氏(島津貴久)、南部氏、最上氏、蘆名氏、伊達氏;根来寺、家臣団、一門(一族衆)、譜代衆、外様衆(国衆)、寄親・寄子足軽(長槍)、給人、貫高制(貫高、永高)、軍役;分国法(家法、壁書)、塵芥集(伊達稙宗)、結城氏新法度(結城氏)、早雲寺殿二十一箇条、今川仮名目録(今川氏親、今川仮名目録追加)、甲州法度之次第(信玄家法)、朝倉孝景条々(朝倉敏景十七箇条)、六角氏式目(義治式目、六角氏)、大内氏掟書(大内家壁書)、新加制式、長宗我部氏掟書(長宗我部元親百箇条)、相良氏(家)法度(相良氏)、嫡子単独相続、連座制(縁座制)、喧嘩両成敗差出検地、信玄堤、楽市・楽座、観音寺城(石寺、加納)、伝馬制度、宿駅

これがどれだけ変わるか(減るか)というと、「提案」の「戦国大名の登場」の「戦国大名の領国支配」には以下の用語が載っている。ちなみに、概念系の用語が太字になっている。

戦国大名寄親・寄子分国法喧嘩両成敗;戦国時代、北条早雲、毛利氏、長宗我部氏、北条氏、武田氏、今川氏、朝倉氏、島津氏、大友氏、伊達氏;検地貫高制

おそらく教育現場は、「ゆとり教育」を超える、大混乱になるのではないだろうか? まず、大学はこれを守って入試問題を出すのか?という疑問。「ゆとり教育」でも問題の質を落とさず、そのツケをすべて負わされたのは現場の教師であった。その悪夢の再来かと思うと、もう何もするな!と言いたい。

そして、「ゆとり教育」の内容をさらに減らすわけだから、学力低下は免れない。文部省が主張する「主体的で対話的な深い学び(アクティブラーニング)」って、名前を変えただけの「ゆとり教育」なんだから、実際にはできないに決まっている。

さらに、歴史用語を減らせば、用語を、ちゃんと憶えられて、使いこなせるという発想が幼稚である。たとえば、「提案」の「北条早雲」「北条氏」を説明するには、

関東の戦国時代は、鎌倉公方滅亡後、古河公方足利成氏堀越公方足利政知、関東管領である扇谷上杉家山内上杉家の対立を利用して、北条早雲が勢力を拡大したことから始まる。この後北条氏の支配は、子の北条氏綱や、孫の北条氏康に引き継がれていく。

と『用語集』の言葉が必要になってくる。これを「提案」の言葉だけで説明すると、以下のようになる。

関東の戦国時代は、北条早雲が勢力を拡大したことから始まる。この後北条氏の支配は子や孫に引き継がれていく。

これでも意味がとおるわけだが、古河公方と堀越公方の対立、扇谷・山内両上杉氏の対立という早雲台頭の背景は消えてしまう。また、子の氏綱と孫の氏康の存在は、《早雲―氏綱―氏康(―氏政―氏直)》という用語集の「嫡子単独相続」の具体例であるが、それも消えてしまう。まあ、そもそも「提案」では「嫡子単独相続」は教えなくてよいことになっているけどね。w

言語というのは、構造化されていて、お互いの関係性で成り立っている。歴史用語を減らすということは、構造化されている歴史像のなかの要素を排除していくことで、歴史認識の貧相化につながるのではないかと心配するのだ。

2017.11.18 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(2) |

昨夜の大河ドラマ「女城主 直虎」は、1579年に起きた徳川信康切腹事件の前半だった。w

家康(阿部サダヲ)の命を狙った間者が嫡男・徳川信康(平埜生成)の家臣だったことが判明し、信康の家臣である岡崎衆らは一斉に罰せられる。さらに家康の側室に新たな男子が誕生し、信康とその母・瀬名(菜々緒)の立場はいっそう弱くなる。焦る瀬名は直虎(柴咲コウ)に書状を出し、信康の嫡男を得るため側室の候補を探して欲しいと依頼する。しかしその動きは、信康の正室・徳姫の父にあたる織田信長(市川海老蔵)の知るところとなってしまう。そんななか、信長の使者として明智光秀(光石研)が岡崎城を訪れ、信康に官位を授かってはどうかと持ちかけるが、徳川家の実権を握るための作意を感じた信康は丁重に断る。安土城が完成し、祝いに訪れた酒井忠次(みのすけ)は信長から信康と武田の内通疑惑を突きつけられる。織田の言いがかりに逆らえない家康は、岡崎を訪れ、信康を捕らえる。

第45回 魔王のいけにえ

徳川家中はみんな仲良し、悪いのは魔王・織田信長!って話だった。

ところが、ドラマでもちょっこっと出てくるように、家康率いる浜松衆と信康率いる岡崎衆の間に「不協和音」があった。当時、徳川氏は武田氏と戦っていたが、最前線の浜松衆の方が軍功が大きく、恩賞もそちらの方が厚かった。そのことに岡崎衆が反発していたようなのだ。

井伊直政が家康に仕える前の話なのでドラマには出てこないが、長篠の合戦の1年前(1574年)に大賀弥四郎事件があった。弥四郎は、算術に長けていたので、中間から大抜擢されて三河国奥郡20余郷の代官となり、家康・信康双方から信任を得ていた。ところが、ある家臣が、弥四郎のとりなしで加増されたと弥四郎に吹聴されたので、それに怒って領地の返上を申し出た。家康が弥四郎を調べたところ、弥四郎が、武田氏に通じ、岡崎城を乗っ取って武田軍を引き入れる密約があったことが発覚した。弥四郎は、家族全員を磔で処刑された後、自らも鋸引きで処刑された。弥四郎は「大賀氏」となっているが、江戸町奉行・大岡忠相や9代将軍・家重の側用人・大岡忠光と同じ「大岡氏」出身なのではないかと言われている。この事件の背景にも岡崎衆の反発があったのではないかと考えられている。

信康切腹事件も、浜松衆と岡崎衆の間に対立があり、それが原因で家康と信康が不仲になり、そんな折、信康の妻で信長の娘である五徳(徳姫)から信長に訴えがあった。しかし、信頼できる史料では、信長は「家康に任せる」と言っており、家康の意思で信康の切腹が決められたようなのだ。

ドラマでも扱われるが、この事件に連座して信康の母・築山殿=瀬名も家康に殺されている。武田氏と通じていたというのが理由だが、つるんでいたのは岡崎衆だったのかもしれない。家康の命で佐鳴湖の近く(織田奈那の実家の近くw)で斬殺された。

事件の後、岡崎衆は処刑・逃亡するものが多く、その最大の人物が石川数正である。彼の場合は、ずっと後の1585年に出奔し、豊臣秀吉に仕えた。彼は、信康事件の後も重用され、本能寺の変後は秀吉との交渉に当たっていた。信康の後見人だったにもかかわらず、信康切腹後に岡崎城代となったので、「裏切者」として岡崎衆から憎まれ、孤立していたのかもしれない。秀吉に対しても、酒井忠次や本多忠勝など強硬派に対して、融和派だったので、ますます居場所がなくなったのだろう。

彼の出奔で軍事機密が秀吉に筒抜けになったので、徳川氏の軍制が武田流に変わり、武田の家臣団を率いていた直政の地位を高めることになる。

2017.11.13 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |


マツケンサンバが…


ルリ子の呪いで…


血反吐を吐いて死ぬ。



この驚きの展開に鼻毛が伸びてしまったオイラだった。wwwww

やりたい放題の「女城主 直虎」だが、あいかわらずスゴイな。w

武田信玄が血を吐いて死んだのは事実のようなのだが、結核か胃がんが原因だと推定されている。だから、異常なまでに健康体のマツケンサンバの方が史実に反するわけだけど、さらに死者の呪いで死ぬって…。アホな脚本だな。w


そして、これには伏線が…。



松也が笙を吹いておババ様を呼んだらしい。w

こんな伏線はいらない。しかも…


大河ドラマでオカルト。wwwww

ますます目が離せない「女城主 直虎」だな。w

2017.09.26 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(8) |


松平健が演じてる武田信玄のモデルって…


ホンモノの方じゃなくて…


別人(畠山義続)の方だよね。w


「おんな城主 直虎」って、いろいろ残念なところが多いんだけど、これもその一つだよな。

「このハゲー!」って、どっかの誰かさんが言いだしそうなハゲデブ偽信玄。wwwww

2017.09.21 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |



小野政次(道好)善人説と引き換えに、近藤康用悪人説ですか?

 NHKの大河ドラマ「おんな城主 直虎」第33回「嫌われ政次の一生」で、高橋一生演じる小野政次がついに最期を迎えた。しかも、処刑場で磔(はりつけ)にされた政次を、長槍で刺しとどめを刺すのは、ほかならぬ井伊直虎(柴咲コウ)。裏切り者としての「小野の本懐」をまっとうさせるため、誰よりも深く政次を理解する直虎自らの決断だった。岡本幸江プロデューサーに、政次最期のシーンに込めた思いを聞いた。

政次死す! 「おんな城主 直虎」岡本プロデューサーが語る“衝撃の最期”の真相

近藤康用とは、井伊谷三人衆の一人で、橋本じゅん氏が演じている。龍雲丸(柳楽優弥)率いる盗賊(龍雲党)に材木を盗まれて怒ってた人って言えばわかるだろう。そのときから井伊氏に遺恨があるようで、それを晴らすために政次を陥れたことになっている。



政次奸臣説は『井伊家家伝』が元になっている(直虎=次郎法師=女性説も)。ところが、資料提供した夏目琢史氏と時代考証の大石泰史氏が、『井伊家家伝』は江戸時代に書かれたので、徳川氏・井伊氏を批判できないから、小野政次が悪人だったことにしているのだという。この説をもとに脚本を書いたようだが、政次のような一般にあまり知られていない人物に対して、通説とは異なる説を持ち出すのはどうなんだろうね。それだったら、直虎=男性説はどうなんだよ。w

だいたい康用は、家康の遠江攻略のとき、高齢(とはいえ50代)で歩行困難だったらしく、息子の秀用が従っていた。秀用は、その後に大名に取り立てられたが、なぜか子孫に領地を分け与えたので、子孫は旗本となっている。やらた出てきた気賀も、子孫が代々代官を務めてきたのだ。子孫は不愉快じゃないのかね。w

ちなみに、近藤氏は、『今昔物語』の「芋粥」に出てくる利仁将軍(鎮守府将軍・藤原利仁)の子・叙用[のぶもち]の子孫ってことになっている。代々「用」の字を名乗っているのはそのため。


小野氏は、小野妹子や小野篁の子孫を名乗っていて、政次のもう一つの名、というよりこっちの方が有名なんだけど、「道好」ってのがヤバイ。小野道風と小野好古から一字ずつ取っている。道風は、平安中期の貴族で、「三蹟」の一人。柳の枝に飛びつこうとするカエルを見て、「努力は必ず報われる」って思ったという伝説がある。好古は、その兄で、武人として有名。承平天慶の乱で、大宰府を襲撃した藤原純友を博多津で撃退した。文武に優れた祖先の兄弟から一字ずつもらって、「俺ってスゲエだろ」ってところが、ちょっとヤバイ。

直満-直親-直政(虎松)とは、親(政直)の代から敵対してて、直満は政直が、直親は政次がそれぞれ今川氏に殺させており、虎松も亡き者としようとした。井伊氏のために芝居を打っていたって誰が信じるだろうか?w

圧倒的に悪い人が出てきちゃいけないのかね。悪の美学だってあるだろうに…。そういう人がいないと、ドラマがちっちゃくなっちゃうんだよね。ただでさえ、静岡県内、てか浜松市内に収まっちゃう、ちっちゃなドラマなのに…。直虎も、何も柴咲コウがやる必要ないんだよ。オダナナ(織田奈那)でじゅうぶんだよ。w

2017.08.21 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(4) |

小中高等学校ではいろいろな知識を児童や生徒に教えるが、何でもかんでも教えられるわけではない。





近江アナばかりか、まどちゃん(森保まどか)も地理が苦手。w

重要なのは、江戸時代の河川改修は、水害防止よりも、水運が目的で行われていること。だから、入間川にムリヤリ荒川を合流させて、江戸に流したので、オイラの住む地域は水害頻発地域となった。で、それを防ぐために、荒川放水路(荒川)を掘らねばならなくなった。

また、利根川の東遷も、江戸を水害から守るためとは、とてもいえない。千葉県の関宿が戦国時代に関東の交通の要衝だったから、そこに寄せて利根川を東遷させ、太日川(江戸川)も東に寄せた。その証拠に、江戸時代初め、江戸川との分岐点から鬼怒川との合流点までの川幅は、川船が通れる程度の広さだった。

むしろ、明治以降になって、首都を水害から守るために、さまざまな工夫がなされるようになったって感じ。

荒川の横堤と遊水地

2017.07.23 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

《ヒト「アフリカ起源説」覆る?人類最古の化石、ヨーロッパで発見》という記事が出た。

 わたしたちホモ・サピエンスの種が初めて現れたのは、およそ20万年前、そしてそうした人類の祖先はアフリカ大陸が起源と考えられています。しかし、ヨーロッパで発見された化石が、今まで知られていた中で最も古い717万年前の人類化石であるという最新の研究論文が発表されました。

ヒト「アフリカ起源説」覆る?人類最古の化石、ヨーロッパで発見

この記事では「グレィコオピテクス」とあるが、ギリシアとブルガリアで見つかり、ギリシアのことを「グレコ」というので、「グレコピテクス」でいいんじゃないのかな。

ちなみに、記事には《わたしたちホモ・サピエンスの種が初めて現れたのは、およそ20万年前》とあるが、ちょっと前に30万年前に「初期ホモ・サピエンス」が生きていたという記事が出ている。

 はるか昔、現在のモロッコにあたるサバンナ地帯で、太古の人類が集団で焚き火を囲んでいた。焚き火のまわりには、彼らが使っていた石器が散乱していた。このほど、火に熱せられた石器を調べることで、彼らが生きた時代が今から30万年以上も前だったことが明らかになった。

<解説>30万年前の初期ホモ・サピエンスは人類史をこう書き換える

この《「初期ホモ・サピエンス」が30万年前に生きていた》という記事に対しても、否定的な意見があり、記事では紹介されている。

「グレコピテクス」についても、歯だけで最古の人類と決めるのはおかしい。類人猿なんじゃないのか?という反論があるが、サヘラントロプスやアルディピテクスも歯の特徴で人類としたじゃないかとの反反論もあってなかなかおもしろい。

類人猿グレコピテクスはヒトなのか?

霊長類の分類は以下のとおりだが、グレコピテクスが最古の人類だと、赤字に位置するそうだ。



霊長類
□曲鼻猿亜目:キツネザル下目、ロリス下目
□真鼻猿亜目
  ■メガネザル科
  ■真猿類
    ◇広鼻猿類:オマキザル科、ヨザル科、サキ科、クモザル科
    ◇狭鼻猿類
      ◆オナガザル上科
      ◆ヒト上科
        ◎テナガザル科
        ◎オランウータン科
        ◎ヒト科
          ○ギガントピテクス属
          ○ヒト亜科
            ●ゴリラ属
            ●ヒト族
              △チンパンジー族
              △ヒト亜族
                ▲グレコピテクス
                ▲猿人 (サヘラントロプス、オロリン)
                ▲ヒト属(ホモ)
                  ▽原人
                  ▽ネアンデルタール人、デニソワ人
                  ▽ホモ・サピエンス
                    ▼ホモ・サピエンス・サピエンス



ちなみに、現生人類の一部(といっても、むしろ多数派なのだがw)がネアンデルタール人やデニソワ人との混血であることがわかったので、彼らもホモ・サピエンスに含めるべきとの意見も出ている。

2017.06.15 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

Eテレ「先人たちの底力 知恵泉」で、2週連続、邪馬台国をやっていた。しかも、ゲストが石田衣良さん、村井美樹さんに加え、“タケちゃんマン”こと吉村武彦・明治大学名誉教授だった。w

古代史“最大”の謎、邪馬台国のミステリーを題材に、歴史の楽しみ方の知恵を探る。九州説、畿内説、四国説、さらには沖縄にある卑弥呼の海底神殿まで、想像の翼を広げる。

歴史が苦手という3代目店主の二宮アナが、歴史の楽しみ方の知恵を、古代史のミステリー邪馬台国探しから味わう。「邪馬台国はどこにあるのか?」邪馬台国の名は「魏志倭人伝」にしか登場せず、圧倒的な史料不足が謎解明の最大のネックなのだが、実はそのことこそが、逆に様々な妄想を膨らませる余地を生み、ロマンをかきたてる魅力となっている。先人たちの妄想と最新の研究成果を盛り込んで、歴史の楽しみ方のだいご味を味わう。

邪馬台国はどこにある?古代ミステリー楽しもう・前編



邪馬台国のミステリーを通じて歴史の楽しみ方の知恵を味わう。二宮アナが店を飛び出し、古代王国の足跡を訪ねる。見えてきたのは「邪馬台国などない」という衝撃の結末!?

邪馬台国探しの旅に出た二宮アナ。北九州や出雲から見えてきたのは、稲作をするムラの集まりという弥生時代のイメージを覆す、ダイナミックな日本の姿だった。さらに、邪馬台国の最有力候補地のひとつ奈良の纏向(まきむく)遺跡からは、不思議なことに畑や田んぼ、農具など、生活必需品がほとんど見つかっていない。そこから導き出さた驚きの結論は「邪馬台国という国はなかった!?」。想像の翼を広げる歴史の楽しみ方を味わう。

邪馬台国はどこにある?古代ミステリーを楽しもう・後編

「邪馬台国という国はなかった」の意味は、「邪馬台国」という国は存在せず、「邪馬台国」という名前の連合国家が存在したのではないか、ということ。纒向遺跡は、「邪馬台国」連合の政治・祭祀センターで、政治・祭祀都市だったから「畑や田んぼ、農具など、生活必需品がほとんど見つかっていない」という意味だ。

このような番組に邪馬台国九州説を信奉する方々が「発狂」しているのかと思ったら、ツイッターで探しても見当たらなかった。この番組を知らないのか、最初から見ないようにしているのか、「邪馬台国という国はなかった」の意味を上記のように解釈できないのか、わからないが、寂しいな。古田武彦氏が亡くなって1年半しか経ってないのに、信奉者はいなくなってしまったんでしょうか?

2017.05.17 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

この論文、ネットでえらい人気なんだが…。

 東日本大震災では,多くの神社が津波被害を免れたことが指摘されている.本研究では,日本の神社に祀られる祭神の多様性は,人びとの関心に応じた差異化の結果であるという仮説から,宮城県沿岸部の神社についてその祭神と空間的配置に着目しながら被害調査を行った.祭神については特に,ヤマタノオロチ退治で知られるスサノオノミコトに着目した.スサノオは無病息災の神として祀られることから,洪水や津波といった自然災害時にも大きな役割を果たすと考えられる.また,地域の治水上の要所に鎮座していることが多い.東北での調査から,スサノオを祀った神社,またスサノオがルーツであると考えられる熊野神社は,そのほとんどが津波被害を免れていることを明らかにした.この結果は,地域の歴史や文化をふまえたリスク・マネジメントのあり方について重要な知見を提供する.

東日本大震災の津波被害における神社の祭神とその空間的配置に関する研究(PDF)

津波被害を免れたのは、1)スサノオを祀る八坂、八雲、八重垣、須賀神社、2)スサノオと同一視される熊野神社、3)八幡宮である。それに対して、被災したのが4)稲荷社と5)アマテラスを祀った神社なのだそうだ。

スサノオノミコトを祀る神社として、八坂、八雲、八重垣、須賀神社をあげているが、八重垣神社以外は、もともと祀られていたのは牛頭天王で、災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神として信仰されている。これが江戸~明治にかけて復古神道の影響でスサノオと習合したもので、「スサノオを祀る神社」といってよいのか怪しい。しかも、その八重垣神社は被災しているので、なんだかなあって感じだ。

熊野神社は、熊野本宮大社の主祭神ケツミコノカミがスサノオと同一視されている。スサノオは、髭が杉、胸毛がヒノキ、尻の毛が槇、眉毛がクスノキになったと伝えられ、子どもが木種をもって紀伊国に行ったので、ケツミコと同一視されるらしい。しかし、12世紀に成立した「熊野権現御垂迹縁起」によると、ケツミコは、唐国から来たとされ、阿弥陀如来と同一視されている。また、熊野本宮大社は洪水の被害を受けているのだが、そのことについては何も語られていない。

八幡宮は、宇佐神宮を総本社とし、祭神は八幡大神で応神天皇である。しかし、地域インフラの守り神として、それにふさわしいロケーションに勧請されたと紹介されているが、スサノオとの関係はぜんぜん語られていない。

これらに対して、稲荷社は、稲荷神が稲作に関係する農地に祀られ、そこが湿地などを利用して耕作されたことから、津波の被害を受けたとある。また、屋敷神なので、災害時を考えて場所を選んでいないから、被災したと説明している。

また、「アマテラスを祀った神社の多くが被災したことの理由については定かでない」と書いてある。

なんか、思いつきで書いたんじゃないかと思える内容なので、なんでこんなにもてはやされているのだろうか、という疑問がわく。もてはやしている人も神道について詳しくないんじゃないのかな。

2017.05.15 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

農業嫌い

の一部をツイートした。



そしたら、こんな返信があった。w


これにこう返信したら、


こんな返信があった。


戦争で相手を皆殺しにするから人口増が必須。なんかオカシナ話だ。w

しかし、そーゆーことを唱えている人もいるようだ。

弥生時代の始まりは定説の紀元前3世紀から500年早まるという、考古学者で国立歴史民族博物館・副館長の藤尾慎一郎氏の説を紹介しながら…。

一般に歴史書では農業が始まると戦争が起きると言われていますが、事実は逆です。

武力で序列社会を形成した後、支配者が耕作地を拡大して効率の高い穀物単独栽培を推進していくのです。


弥生時代再考(1)~水田稲作が始まって戦争が起きたのではなく、武力支配の後、耕地が拡大した。

農耕のはじまりが戦争を起こしたのではなく、戦争が農耕を拡大させた、ということらしい。

しかし、藤尾氏はべつにそんなことを言ってはいない。

 本稿では,狩猟採集民が農耕民化することからすべては始まったという枠組みでこの文化変容をとらえ,その過程で縄文人と渡来人が実際に果たした役割を明確にすることによって,議論の基礎となる弥生文化の成立過程の実態を明らかにすることを目的とした。

 まず福岡平野の遺跡ごとに,煮炊き用土器である甕の保有形態と水田の種類,遺跡が造られてからの発展過程を調べた結果,農耕民化へと縄文人をうながした契機,農耕民化が達成された時期と場所,農耕社会化への過程,土器の保有形態に違いをみせる三つのタイプの農耕民化が存在したことを確認した。

 那珂タイプ,板付タイプ,四箇タイプと仮称した三つのケースのうち初めの二つは,縄文人と渡来人の双方がそれぞれの目的をもって共に生活集団を作ることからはじまり,農耕社会化を目指したものであった。役割分担はもちろん存在し,決してどちらか一方の主体性のもとに進行した現象ではない。

福岡平野における弥生文化の成立過程 ―狩猟採集民と農耕民の集団関係

《狩猟採集民が農耕民化することからすべては始まった》って書いてあるじゃん。

ちなみに、《戦争が農耕を拡大させた》論者は、弥生時代を3つに区分している。

1.10世紀~農耕技術だけを伝えた初期渡来民(江南人+古朝鮮人)⇒まだ縄文延長の共同体社会だが、次の稲作拡大の下均しになった時代。

2.前5世紀~武力で従え、クニ(巨大集落)を作り上げた私権社会経験民(呉、越の難民)⇒序列を元にした私権社会の始まり

3.前2世紀~始皇帝の圧力から逃れ、高い技術と呪術を駆使した平和志向の支配者(楚=徐福)⇒後の神社統合に繋がる国家統合の始まり?

※農耕社会の仕組みの基礎となった弥生時代はやはり第2段階から始まる。

上記の藤尾氏の論文は1の時代の話だ!ということなのだろう。

ところで、論者は『王権誕生』を藤尾氏の著書のように紹介しているが、纒向学研究センターセンター長の寺沢薫氏の著書なんだが…。ちなみに、寺沢氏は所属しているセンターからもわかるように、纒向遺跡の研究者でもある。《高い技術と呪術を駆使した平和志向の支配者》なんて書いてあるのは、纒向遺跡が環濠集落ではなかったからなんだろうね。ますます戦争から遠ざかっているんだが…。

さて、《戦争が農業を拡大させた》論者は、徐福が日本に来たと信じているようだが、徐福の時代と纒向遺跡の間には400年以上のギャップがあり、そこはどう埋めるんだろうか?w

国立歴史民族博物館教授の松木武彦氏の『日本の歴史 1 旧石器・縄文・弥生・古墳時代 列島創世記』(小学館、2007年)によると、1の時代で戦いの痕跡が多く確認できるのは北九州で、瀬戸内や近畿以東ではほとんど見られない。また、2の時代になると、北九州では、須玖岡本遺跡(春日井市)と三雲南小路遺跡(糸島市)に大酋長(奴国と伊都国?)が現われるが、逆に戦争の痕跡は少なくなるらしい。

考古学的には、戦争が農耕を拡大させたということを明らかにできる証拠はないようだ。

ちなみに、弥生時代の最近の時代区分は以下のとおり。

   弥生前期:紀元前8・7世紀~紀元前4世紀半ば
   弥生中期:紀元前4世紀半ば~紀元前後
   弥生後期:紀元前後~紀元後3世紀

2017.05.12 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

下記のような記事を読むと、井上靜氏はどんだけ農業が嫌いなんだ!と思う。w

 報道によると、汗ばむ陽気となった6日、葛飾区の「郷土と天文の博物館」前の田んぼで、1年を通じて稲作を学ぶ同館の講座の一環の田植えがあり、親子連れなど約40人が参加、農村体験活動などをしているNPO「古瀬の自然と文化を守る会」(茨城県)のメンバーの指導で、子どもたちは「泥で足が動かないよ、助けて」と悲鳴を上げながらも、田んぼ2枚(約110平方メートル)の田植えを1時間半ほどで終えた。


 こういうの、どうなんだろうか。これはいちおう親子で自由参加なのだろうが、気が進まないのにやらされる子供は必ずいるものだ。

 かつて自分も小学五年の時、学校で強制された。身体が丈夫でないのに無理にやらされた子たちはつらそうにしながら我慢していた。今でいう「ブラック部活」と同じシゴキ感覚が、学校側にはあった。

 それを「米作りの大変さを身をもって知る必要がある」と教師は言うので、なんか中国の文化大革命の「下放」みたいだと言ったら、担任の女性教師に殴られてしまった。だから嫌な思い出だ。

 この程度のことは小学生でも五~六年生になれば普通に言う。よく運動会でマスゲームみたいなことをやらされるが「北朝鮮じゃあるまいし」とか言っていた。


 あと、ご飯を食べるなら作り方や作る大変さを知っておくべきだという、いちおうもっともな説明を教師がしても、ならコメなんて食べなくていいという子供が大勢いた。稲作は農作業の中でも特に大変な作業である。そんなことやめて他のものを食べたほうがいいのではないか。いや、もうすでにコメなんて好きじゃないからほとんど食べてないという人も、かなりいた。

 あと、左寄りな人の中には、天皇が労働とは程遠い儀式で田植えをしているのに頭にきてコメをボイコットしている人がいる。そもそも日本に貧富の差と重労働をもたらした稲作など否定し「瑞穂の国」であることをやめようというのだ。

 これは左翼だけでなく自民党など保守にも多いらしい。だからアメリカでさえトランプ大統領が拒否したTPPを促進し、日本の農業を壊滅させようとしているわけだ。

田植えを子供に強制するな

《なんか中国の文化大革命の「下放」みたいだと言ったら、担任の女性教師に殴られてしまった。だから嫌な思い出だ。この程度のことは小学生でも五~六年生になれば普通に言う》←言わないだろう。w

オイラ的には、都会の子どもには田植えの方がめずらしく、勉強するより楽しいのではないかと思う。あと、最近の子どもは、昆虫が苦手なので、少しは自然に親しむ行為をしないと困るのではないか。以前、教室にスズメバチが入り込んで生徒がパニックが起きたとき、オイラが教室の照明をすべて消させたところ、スズメバチが明るい窓の方に行った。その後、生徒を教室の外に出して、ノートで外に出したら、飛んで行った。これは、昆虫が明るい光を好むことを知っていたからできたことで、昆虫の習性を知らない子どもが大人になったら、このようなことはできないだろう。

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2017.05.10 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |



4月16日(日)放送のNHKスペシャル「熊本城 再建 “サムライの英知”を未来へ」を録画して見た。

震度7を記録した熊本地震で甚大な被害を受けた「熊本城」。“復興のシンボル”となっている城の「再建」は、多くの被災者の悲願だ。再建に向けた第一歩として、立入禁止区域内での調査を特別に許されたNHK。4Kカメラを搭載したドローンの撮影で城全体をデジタルデータ化、精緻な「立体モデル」を製作した。その結果、意外な事実が明らかになってきた。数万個の石が崩落した文化財の「石垣」。明治時代に修復された部分で被害が目立った一方で、築城当初に造られた石垣のほとんどは地震に耐えていたことがわかったのだ。400年前のサムライは“地震に強い城”をどう造り上げたのか。私たちは、最新科学と歴史検証で知られざる“ミステリー”に迫ることにした。一方、「サムライの英知」を未来へとつなぐ再建。そこには大きな壁が立ちはだかっている。余震が相次ぐ中で石垣がふくらみ出し、新たな崩壊の危機が高まっているのだ。文化財の価値を守りながら、どう耐震性を高めるのか、模索が続く。熊本地震から1年、熊本城に隠されていたサムライの英知に迫ると共に、戦後最大の文化財被害からの再建に密着する。

熊本城 再建 “サムライの英知”を未来へ

“サムライの英知”とか言ってるけど、“職人の英知”じゃないの?とツッコミを入れたくなった。

熊本城というと、「武者返し」が有名だ。従来は、攻め手が登れなくするために、これをつくったと言われていたが、耐震性のためだという結論になった。「武者返し」は、加藤清正が1593年に朝鮮半島で築城した倭城にはなく、1596年の慶長伏見地震を体験した後、1599年から築城した熊本城で多用されるようになったからだ。ちなみに、手前が清正流石垣、後ろが細川時代に築かれた石垣とのこと。



熊本地震によって、明治以降に陸軍が積んだ石垣は30%も崩れているのに、安土桃山~江戸初期の石垣は10%しか崩れていないとのこと。

ただし、耐震性を考えたら、古い時代の“野面積み”の石垣の方が高い。



天空の城・竹田城がもてはやされたとき、ワイドショーですらやっていた。自然石なので、石と石との接着が面でなく点なので、地震力を逃がしやすいからだ。“打込み接(はぎ)”や“切込み接”だと、面で接着するので、地震力が逃げにくい。

だから、清正流の石垣も、中でぐり石が崩れ、表面が出っ張っていて、いつ崩れてもおかしくないところがあるそうだ。

2017.04.19 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

井伊美術館の井伊達夫氏といえば、大河ドラマ「女城主 直虎」が始まる直前に「直虎は男だった」と言いだした人だ。

井伊直虎「女城主」じゃなかった説

そして、こんどは「通説より14年早く死んでいた」という説を唱え始めた。w

 同館によると、古文書は、井伊家の家臣だった河手家(かわてけ)の子孫がまとめた「河手家系譜」。

 この中の文政13(1830)年に書かれたページで、河手家の人物を紹介する文章の行間に、墨字で「井ノ直虎は幼かったので河手が補佐した」と追記。この「井ノ直虎」の隣に「次郎也」と朱色の文字が付け加えられていた。

 次の行には、墨字で「永禄11年の駿河崩れの時、落ち延びる直虎が討ち死にした」として、今川家滅亡のきっかけとなった徳川家康らの今川領侵攻で直虎が討ち死にした、と書かれていた。直虎は文献から一般的に、天正10(1582)年に井伊谷(静岡県浜松市)で死去したとされていた。

「おんな城主」?井伊直虎、通説より14年早く死去か 京都・井伊美術館が発表

直虎の死から250年後に書かれた「河手家系譜」が根拠とは、いささか弱いような気がする。また、この“井ノ直虎”にわざわざ“次郎也”と書いてあるのも怪しい。つまり、“井ノ直虎”は、井伊家の家督を代々継ぐ“次郎”を名乗っているんですよ、とわざわざ注記してあるのだ。だいたい「○○家系譜」というものが、先祖の手柄を誇るため、後世につくられるものなのだから、先祖の手柄をかなり盛って書かれているものなのだ。

じつは、次郎法師(直虎)が「女地頭」であったと書いてある「井伊家伝記」も、享保15年(1730年)に龍潭寺の祖山によって作成されているので、直虎の死から150年も経っている。こっちはこっちで、井戸より出生したとされる、井伊家の祖先・共保の供養のために、井伊家に援助を促すのが目的なので、史実が書いてあるかは、けっこう怪しいのだ。

両者の主張に折り合いをつけると、直虎は2人いて、1人は井伊直盛の娘「次郎法師」で、もう1人が関口越後守氏経の子「次郎」だ。「次郎法師」が徳政令問題で苦労するんだけど、このあと、小野政次(道好)が、クーデタを起こして、井伊谷を簒奪する。そのとき立てられたのが「次郎」なのだ。で、「次郎法師」は、直親の子・直政を徳川家康に仕えさせ、家康が井伊谷に攻め込んだときに、「次郎」は討ち死にする。その後、捕えられた政次は処刑されるという話だ。これなら、矛盾なく説明できるわけだな。w


ドラマだから、べつに史実に基づかなくてもよいのかもしれないが、見ている人のなかには史実だと思って見ている人もいるので、あまりテキトーなことは描かない方が良いだろう。w


リンクがキレてたら…

続きを読む

2017.04.12 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

「忍城は水攻めはなかった?」という高校生の研究をもとに、理系クラスタの方が、文系(歴史)クラスタをバカにしてツイート。


これに文系(歴史)クラスタから反論がつぎつぎと…。w




この場所には過去に何回か行ってるんだけど、城と陣地との標高差は1メートルほどなので、自然堤防の上に1~2メートル土を盛った堤でも、じゅうぶん水攻めは可能と思われる。水攻めと行っても、城兵を溺死させるのが目的ではなく、戦意喪失させるのが目的なので、相手が困ってやる気をなくせばよいのだ。

2017.02.13 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |