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須貝誠氏の《「登場人物の気持ちを答えよ」という国語の授業が大間違い》との主張に対して、あすこま氏が反論している。

須貝氏の主張は以下のとおり。

物語文の登場人物の心情を問う授業では、文章中に直接的な心情(嬉しい・悲しいなど)が書かれていなければ、正確に読み取らせられるとは言えないのだ。

繰り返しになるが、最初に書いたように、同じ物を見たり、同じことを経験したりしたとしても、人の思いは様々だからだ。

学校の国語の物語文の授業では、心情を表す直接的な表現がなければ、心情を問う授業をするのは不適切だと言える。

「登場人物の気持ちを答えよ」という国語の授業が大間違いなワケ

あすこま氏の反論は以下のようにまとめられる。

  1.物語の解釈は自由でも、解釈の幅は存在する。なぜなら、僕たちは、同じ文化を共有する共同体のメンバーであり、解釈の幅は、共同体のコードが決めるからだ。

  2.物語文にも読み取りのコードが存在する。だから、直接書かれていない人物の心情も読み取れる。

  3.教室とは、解釈共同体のコードを教える場である。だから、本当に「的外れ」な解釈が出てきた時には、「本当にそうかな?誰々君はどう思う?」とやんわりと否定したり、スルーしたりする。

  4.しかし、共同体の解釈のコードは、時代とともに形成され、変化する動的なものである。また、解釈共同体は唯一のものではない。そのコードや解釈共同体を相対化し、揺さぶる経験も必要なのかもしれない。


「直接書かれていない心情を答えさせるのはおかしい」という意見に大真面目に答えてみました

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2019.02.22 | ├ 言語学ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |

セミオティックとサンボリックについて、いちいち説明するのがメンドクサイので、ここに引用しておく。引用元は、立川健二、山田広昭[著]『現代言語学 ソシュール、フロイト、ウィトゲンシュタイン』(新曜社、1990年)の147ページ。

 セミオティック[sémiotique]とサンボリック[symbolique]というふたつの様態の違いをトポロジックに図式化すれば、以下のようになる。

(a) 分身、あるいは主体(sujet)でも客体(objet)でもない(アブジェ[abjet])。差異化の戯れ。母性的混沌。

(b) 第三項(C)の媒介によって主体(A)と対象(B)が分離・対立する。たとえば、Aが幼児、Bが母親、Cが父親である。媒介と対立の三項関係、あるいは固定した差異(=対立)のシステム。父性的秩序。

2018.10.30 | ├ 言語学ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |