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この件については、今回、つぎの2冊の本を読んだ。

  佐伯有清 著『邪馬台国論争』(岩波新書、2006年)
  鈴木武彦 著『日本の歴史 列島創世記 ~旧石器・縄文・弥生・古墳時代』(小学館、2007年)

『邪馬台国論争』は、20世紀初頭に久米邦武が北九州説を唱え、それに内藤湖南が大和説で反論したときから、現在に至るまでの論争をあつかった本である。

また、『列島創世記』は、最新の考古学的知識をもちい、旧石器時代(5万年前)から古墳時代(5世紀)までの日本の歴史をあつかった本である。

結論から言うと、最新の研究成果を見る限り、大和説が圧倒的に優位である。

とくに考古学的発見は、大和説を裏づけるもの(北九州での発掘を含めて)ばかりであり、北九州説は、極論すれば、大和説にイチャモンをつけることでしか、存在し得ないようである。

この傾向は、久米の北九州説に内藤が反論した段階からすでにそうであり、北九州説でこここそ邪馬台国の遺跡と考えられたものが、その後の発掘の結果、そうでないことがつぎつぎと明らかになった。

一方、大和説は、考古学的成果が蓄積されるにしたがって、その優位を確実にしつつある。『列島創世記』のなかで、松木はつぎのように述べている。

(前略)近年の調査の進展や年代決定作業の精密化によって、邪馬台国と卑弥呼が存在したとされる三世紀前半の集落や人口の分布、物流や墳墓の実態などが、ずいぶんと明らかになってきた。(中略)前方後円形や前方後方形の墳丘墓が現われ、奈良盆地の纏向[まきむく]を中核拠点とした広域のムラどうしのネットワークが生み出された段階が、ちょうど三世紀前半にあたる。

  また、卑弥呼が亡くなり、「径百歩」(約150メートル)の墓が築かれたとされる紀元後250年前後は、最初の倭王の墓と本文で考えた奈良県桜井市の箸墓[はしはか]を筆頭に、各地で大型前方後円墳の造営が始まる時期である。さらに、(中略)邪馬台国を語る際によく出てくる北部九州勢力の近畿への大規模な東進説や、北部九州対近畿・瀬戸内の対立説は、考古資料からはその跡をうかがうことは困難である。

  決定的な証拠は出てこないだろうが、このような具体的なデータを積み重ね、より矛盾の少ない解釈を導くことによって、邪馬台国の位置をある程度絞り込める日は来るだろう。(187~188ページ)

学者さんは「北九州説、終わったな」とは書かないものである。w

そもそも北九州説は、古墳時代のはじまりが邪馬台国よりも100年後の4世紀であり、日本全体に及ぶような勢力が現われていないことを前提としている。したがって、その前提が考古学的発見によって崩れた以上、その存立基盤は失われてしまったのだ。

ちなみに、邪馬台国の中心である可能性がきわめて高い纏向遺跡については、つぎのように紹介されている。

奈良県桜井市の纏向周辺は、唐[からこ]古・鍵[かぎ]などの弥生時代のムラや、箸墓以外にも三角縁神獣鏡[さんかくぶちしんじゅうきょう]が33面出土した黒塚[くろづか]古墳などの古墳が密集している。2007年(平成19年)には、纏向が中核地点となった三世紀前半のもので列島最古とされる、木製仮面が出土した。

ちなみに、オイラは、もともとは北九州説信奉者でした。w 理由は、最初に読んだ本が、北九州説を採っていた故・井上光貞さんの『日本の歴史(1)』(中公文庫、1973年)だったから…。この本での主張も、3世紀には日本全体に及ぶ王権は存在しない、だったな。その後、日本史のT先生の薫陶を受け(爆)、大和説に「転向」したのです。

さらに言うと、T先生もじつは北九州説信奉者だったそうです。しかし、学会に出席し、最新の研究成果を知ると、「転向」せざるをえなかったそうです。(爆)

まあ、北九州説に固執している人々は、大和説がどんな証拠を出してきても、イチャモンをつけるでしょうけどね。

2008.03.09 | 日記らしきもの | トラックバック(0) | コメント(8) |