オイラがこの論争をするにあたってとくに注意したのが、ふだん漢文史料をあつかっている東洋史研究者の見解だった。

大庭脩さんの『親魏倭王』(増補新版、学生社、2001年)や西嶋定生さんの「一-三世紀の東アジアと倭国」や「卑弥呼と東アジア」(『西嶋定生東アジア史論集』第4巻、岩波書店、2002年)などである。

大庭脩さんは、前掲書の「漢文史料の扱い方」という項目で、漢文史料をあつかう際の注意点をつぎのように述べている。

  三世紀の日本、邪馬台国、卑弥呼をめぐる問題は、今日わずかな古代史専門家だけではなく、多くの人々が考えをのべあう、いわば国民的な研究課題になっている。そこで私も考えをのべさせてもらったわけだが、この本を終えるにあたって私は一つの提案をしておきたい。

  古代史というものは、本質的に史料が乏しく、したがって可能性の追求をすることになる。そこでこの説だけが絶対正しいということは簡単にはいえないものであり、いろいろな説がでてきて当然である。ただ、中国の史書の記事を取扱うときには、倭の記事の部分だけをとりあげて、蚤取りまなこでその部分を詳しく読み、その他の部分はかえりみないというやり方では、どうしても誤解を招きやすい。それこそ、『魏志倭人伝』という、日本にしかない書物で研究をして、『三国志』全体をかえりみない欠陥がでてくるのである。島国的な狭い日本の認識のしかたはもう沢山である。したがって中国の史書をよむ時には、大きく全体の中で倭の記事をとらえるようにして欲しいということをお願いしたい。

  それと同時に、中国の史書は、東夷ならば東夷という一つの前提があって記述していることを忘れてはならぬ。『書経』の禹貢に、「島夷は卉(き)服す」とあれば、その古典、経書の記事が大前提となって、島にすむ東夷は悪い服を着ていると考えなければならぬように記述をすすめる傾向がある。秀吉の誥命の中に「風を卉服に行ない」という文があるのは、これによっているのだ。「黥面文身」もまたそのよい例である。そこで、当時の唯一の文献史料である「魏志倭人伝」は、なるほど何とか利用したい物に違いないが、この際思い切って、一度その限界を考え、まったくその記事に制約されない自由な議論を展開してみてはどうだろうか。たとえば、考古学資料のみによって、あるいは日本の古典の記述のみによって考え得ることを自由にのべてみることを試みてはどうだろうか。「魏志倭人伝」の記事にかかわろうとすることが、かえって研究の発展を阻害することになっているような気がするのである。私の本が、漢文史料の取り扱い方について何かの参考になれば、私は本当に嬉しいのである。(214~215ページ)

つまり、「魏志倭人伝」だけでなく、『三国志』全体を読んで欲しいということと、中国の史書を書いた書き手のもつ「東夷」に対する偏見に気をつけろということだ。

また、西嶋定生さんは「一-三世紀の東アジアと倭国」のなかで、東アジアの国際関係の重要性をつぎのように語っている。

  従来、魏王朝が卑弥呼を親魏倭王に冊封したのは、それより一○年前の三二九年に、大月氏王波調(クシャン王朝ヴァースデーヴァ)が遣使奉献したときにこれを親魏大月氏王に冊封したのと同じように、遠夷来貢に対する特別な恩恵であると考えるか、もしくは朝鮮半島南部の韓族をその背後から牽制しようとする政略によるものであると考えられている。しかし親魏大月氏王の冊封の場合には、その二年前の三二七年に涼州の諸国王が月支・康居の胡侯たち二十余人を蜀王朝に派遣して、討魏のための出兵にはその先駆となることを申し入れたという事情があり(『三国志』蜀志後主伝建興五年条斐松之注所引『諸葛亮集』蜀後主劉禅詔文)、おそらくはこの状況を知った魏王朝が、これを未然に防ぐために西域諸国の背後にある大国大月氏を冊封したものと考えられ、これをたんに遠夷来貢に対する恩恵であると考えることはできないであろう。また韓族の勢力が強盛となって、魏王朝がその統治に苦慮するのは、親魏倭王冊封以後のこと、とくに二四五年以降のことである。

  それゆえ上述した公孫氏政権の滅亡をめぐる東アジアの諸状況から考えると、魏王朝が邪馬台国女王卑弥呼を親魏倭王に冊封したのは、呉に対する正面戦線である淮河流域における情勢が当時緊迫していたことに加えて、公孫氏滅亡後における東北方面においても、呉王朝の勢力が蠢動していたことに対して、倭国と提携して後方からこれを牽制しようとしたためであると考えられる。なぜならば、卑弥呼の本拠邪馬台国は帯方郡の南方一万二千余里の地点、すなわち会稽郡東冶県(現在の福州市付近)の東方海中にある大国であって、それはまさしく呉王朝の後方に位置するものと考えられていたからである。従来の邪馬台国の位置論争は、これが日本列島のどこに当たるかということのみが問題とされ、当時それが会稽東冶の東方にあったと考えられていて、誰しもこれを疑わなかった、という事実を見失い、そのために邪馬台国に対する魏王朝の政略論を問題にする視角が欠落しているのである(以上、拙稿「親魏倭王冊封に至る東アジアの情勢─公孫氏政権の興亡を中心として─」『中国古代国家と東アジア世界』一九八三年、東京大学出版会、所収を参照)。(西嶋前掲書、24~25ページ)

ここに出てくる「遠夷来貢」とは、元来中国の礼を知らない禽獣に等しい夷狄が、天子の徳を慕って来朝し、中国の礼に同化されることである。これは、理想的な君主は有徳の聖人であり、その徳によって人民が同化されることで理想的な政治が行われる、という「王化思想」の極致を示している。

従来は、このような「遠夷来貢」の一形態として、大月氏国や倭国の冊封(蛮夷の王の朝貢に対して、皇帝が官位を与え、その支配を認めること)を考えてきたが、じつはもっと現実的な国際関係上の必要性があったのだ、というのが西嶋さんの指摘である。

このことは、「魏志倭人伝」を読むには、北アジアや中央アジアを含む東アジア全体の国際関係に対する視野が必要だということである。

日本国内のどこに邪馬台国があったか、しか関心のない人たちにそのような視点を期待すること自体がまちがいなのかもしれないのだが…。

2008.06.22 | 日記らしきもの | トラックバック(0) | コメント(0) |

ちょwwwwwおまwwwwwwww



これが倭国使(日本国が派遣した使者)だそうですよ。w

中国の南北朝時代、南朝梁の元帝(位552~54)が、まだ皇帝にならず、地方官をしていた539年ころ、梁に朝貢してきた諸外国の使者を描いたものです。ちなみにこの絵の現物は1077年の模写だそうです。

このころの日本は、古墳時代の末期で、人形埴輪などの服装と比べても、こんな服装の人はまずいないでしょう。

ところで、倭国からの使者は502年を最後に梁へは行っていません。つまり、想像で描いたというわけです。『魏志』東夷伝の倭人条で倭人の服装は「木綿を以って頭に招(か)け、其の衣は横幅、ただ結束して相束ね、ほぼ縫うことなし。…みな徒跣(はだし)」と記されています。これをもとに描いたんでしょうね。

それにしてもヒドイですね。w

そーいえば、せんとくんに似ているような。(爆)

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