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『幻想の多元的古代』の著者・原田実さんは、古田トンデモ武彦氏が提示した問題が3つ残っている、と述べています。

  (1)なぜ、現行『三国志』では、女王の都する所の国号が“邪馬臺国”ではなく“邪馬壹国”となっているか。私たちは邪馬壹国説に代わる解答を求めなければならない。

  (2)なぜ、『三国志』韓伝・倭人伝の里数は異常に大きい数値を示しているのか。私たちは魏晋朝短里説とは異なる解答を求めなければならない。

  (3)なぜ記紀の語る歴代天皇と、中国史書の倭王をいかに比較しても、その系譜・事績の一致を求め得ないのはなぜか。私たちは、九州王朝説とは異なる解答を求めなければならないのである。

このなかでいちばんやっかいなのは(3)なのですが、(1)と(2)についてはすでに答えは出ていると思います。

(1)については、大庭脩さんが『親魏倭王(増補新版)』(学生社、2001年)で指摘しているように(199~206ページ)、『後漢書』など『三国志』を参考にして書かれたすべての文献に“邪馬臺国”とあることから、“邪馬壹国”は“邪馬臺国”の誤写であろうということです。現在の『三国志』は宋の時代に印刷物となっていますが、それ以前は筆写されてきたので、その過程で“邪馬臺国”が“邪馬壹国”と誤写されたのです。同じ理由で、“一大国”は“一支国”、“景初二年”は“景初三年”の誤写だとされています。

で、つぎに(2)について論じます。いわゆる「短里」説問題です。

古田さんによると、

(1)周王朝では1里=75~90mの短里が使われていた。

(2)秦の始皇帝が1里=400mの長里を導入し、つづく漢もこの制度を維持した。

(3)魏と西晋は周の短里に復帰した。

(4)東晋は秦・漢の長里に復帰した。

のだそうです(古田武彦 著『日本古代新史 ―増補・邪馬一国の挑戦』新泉社、1991年)。

しかし、これは古田さんが創作したもので、実際には「短里」は存在しないのです。(爆)


小泉袈裟勝 著『歴史の中の単位』(総合科学出版、1974年)という本は、西洋・東洋・日本の度量衡にかんする歴史を著した本であり、そのなかにくわしく中国の度量衡の話が出てきます。

中国では長さの単位として「尺」「歩」「里」などが使われ、1歩=6尺、1里=300歩(=1800尺)という関係がありました。

中国の歴史書は、司馬遷の『史記』以来、紀伝体を用いてきました(編年体で書かれたものもあるが)。紀伝体とは、各人物ごとの事績を中心に歴史記述を行うもので、ふつう、本紀(帝王の伝記)・列伝(臣下などの伝記)・志(地理・礼楽など)・表(各種の年表)からなり、志・表を欠く場合もあります。

「志」の中には、度量衡の単位について書かれた「律歴志」というのがあり、とくに『隋書』の「律歴(暦)志」には、周朝以来の歴代王朝が採用してきた尺が「周尺」を基準に書かれています(『隋書』巻16、志第11、律暦上)。それを一覧表にしたのがつぎのものです。

1周尺,劉■*1銅斛尺,後漢建武銅尺,晉前尺一尺23
2田父玉尺,梁法尺一尺七厘23.16
3梁表尺一尺二分二厘一毫23.51
4漢官尺,始平銅尺一尺三分七毫23.71
5魏尺一尺四分七厘24.08
6晉後尺一尺六分二厘24.43
7後魏前尺一尺二寸七厘27.76
8後魏中尺一尺二寸一分一厘27.85
9後魏後尺,後周市尺,開皇官尺一尺二寸八分一厘29.46
10東後魏尺一尺五寸八毫34.52
11蔡■*2銅籥尺,後周玉尺一尺一寸五分八厘26.63
12宋氏尺,後周鐵尺,開皇調鐘律尺一尺六分四厘24.47
13律呂水尺一尺一寸八分六厘27.28
14劉曜渾天儀土圭尺一尺五分24.15
15梁俗間尺一尺七分一厘24.63

  *1 「音」の右に「欠」
  *2 「巛」の下に「邑」

いちばん左が番号、つぎが尺の名称、そのつぎが周尺との比率、最後がメートル法に直した数値(cm)です。

これによると、魏の時代の1尺は約24cmであり、1里は434mになります。ちなみに、周の時代の1尺は約23cmで、1里は415mです。

小泉さんの説明によると、ここに出ているのは国家が定めた長さですが、民間ではこれより長い尺を使っていたと考えられるのです。全体的にいうと、尺は長くなる傾向にあったのです。しかし、長さが変化すると(長くなると)、儀式で使う笛の音が変化してしまう(低くなってしまう)ので、たびたび元に戻す必要があったのだそうです。

古田さんは魏と西晋では「短里」が使われていたと主張していますが、そうでないことが小泉さんの本に書いてありました(前掲書、209~212ページ)。

西晋の武帝(司馬炎)は、音律の変化を問題視し、泰始9(273)年に中書監の荀勗(じゅんきょく)に命じて調べさせました。西晋では魏と同じ尺を使っていたのですが、どうもそれが伸びていて音程が変わってしまっている。そこで荀勗は、古い器物や貨幣によって古来の正統尺の復元を試み、約23cmの周尺を再現したのです。それが上の表にあった「前晋尺」です。この話は『晋書』志第6「律暦志」上に載っています。

荀勗の仕事は高く評価されたのですが、これに異議を唱える者がいました。竹林の七賢の一人・阮咸です。阮咸は、荀勗の復元した尺でつくった楽器の音律は高すぎる、と罵りました。音律が高すぎるのは悲しいことだ、これは興国の音でなく、亡国の兆しである、と言ったというのです。阮咸の死後、始平で古い尺が発見されました。これが上表にある「始平銅尺」です。荀勗の尺よりも三分七毫長かったので、世人は阮咸の音感に感心したと伝えられています。

これらの話からも、魏と西晋の時代に「短里」が使われていなかったのがわかります。

2008.08.09 | 日記らしきもの | トラックバック(0) | コメント(0) |

オリンピックは平和の祭典だそうだ。だが、その開会式を狙って戦争を始めるんだからなぁ。…と言っても、テロではない。マジで戦争である。

ロシア軍が南オセチアに侵攻、グルジアとの戦闘激化=現地報道

今回、グルジア軍の南オセチア自治州への侵攻、それに対するロシア軍の介入という形で戦争が始まったわけだが、その背景はかなり複雑である。

南オセチアは、グルジア共和国の自治州だが、事実上、独立状態にあり、グルジアの主権はおよんでいない。住んでいるのはオセチア人で、彼らはイラン系のオセット語を話す民族である。オセチア人は南北に分断されいて、北半分はロシア連邦の北オセチア共和国、南半分がグルジア共和国の南オセチア自治州というわけだ。ニュースに出てくる「分離独立」とは、グルジアからの分離独立であるとともに、ロシア連邦への加盟=オセチアの統一である。

グルジアは、ソ連崩壊後、一貫して反ロシア・親欧米外交を展開しており、NATO(北大西洋条約機構)とEU(ヨーロッパ連合)への加盟を進めてきた。しかし、オセチア人のナショナリズムを抑圧しているので、クルド人を抑圧しているトルコとともに、EUに加盟できないでいる。

グルジアの反ロシア外交を苦々しく思ってきたロシアだが、国力が衰退していた1990年代はグルジアへの介入は不可能であった。しかし、2000年代に入って、原油価格が高騰すると、産油国としてその利益を得たロシアは突如「大国」意識を露骨にあらわす。オセチア人のナショナリズムを利用して、彼らの分離独立=ロシアへの編入を援助しはじめた。オセチア人の分離独立運動を応援するロシアだが、国内ではチェチェン人のナショナリズムを抑圧しているのはご存知のとおり。

オセチア人が独立したとしても、問題は解決しない。オセチア領内にはグルジア人が少数民族として残るからだ。かつて抑圧されていた民族が、独立後、こんどは抑圧する側にまわることは何度も見てきたからね。ヒトラーに絶滅されそうになったユダヤ人は、イスラエル独立後、こんどはパレスチナ人を抑圧しはじめた。

まったくもって正義のない戦いである。

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2008.08.09 | 時事ネタらしきもの | トラックバック(0) | コメント(0) |