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例の写真の女性、楠本高子さんですが、夫は三瀬諸淵(周三)と言います。


三瀬諸淵と妻高子


あの写真はこの写真から切り取ったもので、この写真は愛媛県大洲市立博物館に所蔵されています。

シーボルトの弟子であった二宮敬作の甥である諸淵は、20歳の若さで地元大洲での日本初の電信実験に成功しました。村田蔵六(大村益次郎)から学んだ語学力を生かし、外交の表舞台で通訳・翻訳に活躍しました。シーボルトの娘イネとも親しく、イネの娘である高子と結婚しました。くわしくはこちらをご覧ください。

三瀬諸淵

じつは、松本零士先生の母親は、この諸淵の出身地でもある大洲市の出身なのです。松本先生が言っていた曾祖父(あるいは祖父)は母方の親族なんですね。

ところが、不思議なことに、高子さんは大洲市に行った形跡がないのです。

彼女は、自分の出生について、つぎのように語っていました。

  私の父は石井宗謙でございますが、母いねは石井を大変嫌っておりました。これには深いわけがございますが、ここでは立ち入った事は申し上げられません。

  ただ申しあげたいことは、石井とは一度だけで私をみごもったのでございます。

  何事も天意であろう、天がただで私を授けたものであろうとあきらめまして私を「ただ子」と名づけましたことで御推察お願いいたします。

  父の石井宗謙は美作(岡山県の一部)の古い家柄に生まれた人でございました。祖父シーボルトが長崎に渡来したと聞きまして、長崎に参りその門人となりまして蘭学医学を修め衆にすぐれた才能を持っておりましたそうで。

  のちに、備前岡山で開業いたしましたが、抜てきされまして、徳川家侍医になりましたのでございます。 それで、江戸に移り文久元(1861)年の5月、66歳でなくなりました。

  父宗謙には歴(れっき)とした妻がおり、しかも私の外に男2人の庶子がおりましてございます。はじめ母いねは岡山の石井を頼って医術の研究に出向いたのでございます。そのことは前にもお話しいたしました。

  祖母のたきは、母いねの修行のさまを見届けに、はるばる岡山まで参り安心して長崎に帰ってきたのでございますが、とうとう母は私を分娩して長崎に帰ってくる始末になったのです。そして私は13歳まで長崎に居りました。

  それから14歳の時には宇和島様の御殿に奉公することになりましたのでございます。

母いねのこと

彼女は、シーボルトの娘イネが石井宗謙にレイプされて生まれた娘だったのです。13歳までイネの母たきによって長崎で育てられ、14歳のとき、二宮敬作のつてで宇和島藩の伊達宗城に仕え、16歳のとき、宇和島で敬作の甥・三瀬諸淵と結婚しました(年齢はすべて数え年)。

ねっ、大洲には行ってないでしょ。

いったい松本先生の曾祖父(あるいは祖父)はどうやって高子さんと知り合ったんでしょうか?

先生の脳内でかな?(爆)



楠本高子さんには子どもが4人おりました。

三瀬諸淵との間には子どもはできませんでした。諸淵の死後、東京で異母兄にあたる石井謙道のもとで産科の勉強していましたが、そのとき医師の片桐重明と恋仲になり、子どもができました。イネは婿にしようとしたのですが、謙道は許しませんでした。

そのとき、佐賀県の医師・山脇泰輔が高子をどうしても嫁にしたいと行ってきたので、妊娠したまま結婚したのです。生まれた子どもは、元の夫と同じ周三と名付けられ、長崎の楠本家を継ぐことになりました。

泰輔との間には1男2女が生まれましたが、泰輔が死亡したので、子どもを連れて東京に行き、そこで芸事の教授をして生計を立てていました。


残念ながら、大分には子孫はいないみたいですよ。w

2010.08.15 | アッチ(木下あゆ美) | トラックバック(0) | コメント(3) |