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苫米地英人(著)『スピリチュアリズム』(にんげん出版、2007年)

2008年10月1日放送の「博士も知らないニッポンのウラ」の「スピリチュアルのウラ」に出ていた苫米地さんがオモシロかったので、つい買ってしまった。

内容は、江原啓之を代表とするスピリチュアリズム批判の部分と、スピリチュアリズム批判のためにナーガルジュナ(龍樹)の中観(ちゅうがん)思想を使っている部分があって、前者よりも後者の方が圧倒的にオモシロかった。w

江原批判は、江原は精神病で霊が見えるんだから、著者がカウンセリングして見えなくさせてやるってことだった。あと、スピリチュアリズム批判は、スピリチュアリズムはヒンドゥー教の輪廻思想から一歩も出ておらず、その最終形態はオウム真理教で、江原はやがて麻原彰晃(松本智津夫)化するってことだった。

「オーラの泉」で、江原がゲストについて言い当てて、ゲストが「そうです!」って答えるところは、ぜんぶ催眠術なんだそうだ。江原は、自分が催眠状態になるんで、オーラや霊が見え、ゲストも、催眠状態になるんで、江原の指摘が間違っていても「そうです!」ってなるんだそうだ。それはそれでスゴイと思うが、なんかウソっぽい感じがする。

しかし、苫米地さんによると、人間は簡単に変性意識状態になってしまうそうだ。ものを考えたり、人の話を聞いたりするだけで、変性意識状態になる。

これはウソではなく、言語や記憶の研究者によると、人間が言語や知識を扱うとき、無意識(正確には前意識)にアクセスするからなのだ。言葉や知識は、思い出そうとしても、出てこないことがある。エピソード(できごと)記憶ではそんなことは起きない。これは、エピソード記憶が意識の部分に蓄積されるのに対して、言葉や知識が無意識と意識の中間部分(前意識)に蓄積されているからなのだ。自転車の乗り方や箸の使い方など、体で覚えることは完全に無意識に記憶される。だから、記憶喪失で失われるのはエピソード記憶だけで、記憶喪失になっても、箸は使えるし、日本語も話せる。

ただ、オイラの体験では、変性意識状態とふだんの意識状態は明らかにちがうので、体験している本人には区別できる(と思う。精神病の場合は区別できないけどね)。だから、あまり説得力がないんだよね。


苫米地さんの中観思想の説明はたいへん分かりやすい。宮崎哲弥がわかりやすいって褒めてたからね。

仏教には、仮観(けがん)・空観(くうがん)・中観がある。現世の見方が仮観(たとえば、目の前にある机)。これに対して、仏教では、ものの本質を観ること(机は原子、さらに素粒子でできている)を空観という。空観だと、この世のあらゆる苦しみ・悲しみも、自分の心がつくり出したものだから、観測者のあなたがつくり出した情報状態に過ぎない、ということになる。

映画館に入ったら、隣にポテトチップを食べている奴がいた。この音があまりにうるさいので、殺してしまう。これは、仮観では殺人だが、空観では、コイツは空だから殺してもかまわないってことになる。いや、むしろ、これ以上、悪行をさせないためにも、殺した方がコイツのためになる。これがオウムの「ポア」の思想だ。

そうならないために中観がある。何かに役割を持たせるのが仮観だ(机はものを乗せる役割がある)。隣でポテトチップを食べている奴。しかし、私も彼女とデートをしに映画館に来ている。コイツは、ポテトチップを食べるのが楽しみで、ここに来ているのかも…と思えば、殺すことをやめるというのだ。中観とは仮観と空観をうまく維持する思想なのだ。

オウム(というよりチベット仏教)は、空観を追及したが、中観思想がないので、テロ集団になってしまった。その危険性が江原にもあるというのだ。

宮崎が書いた本にもオウムの空観思想の危険性についての話が出ていた。ただ、苫米地の方が分かりやすい。ただし、江原が出くるところまで…。wwwww

2012.12.07 | | トラックバック(0) | コメント(0) |