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丸山圭三郎[著]『ソシュールの思想』(岩波書店、1981年)の247~255ページに「外示と共示」という項目があって、本質的言語についての説明がある。

まずは、外示と共示について。

「外示(ディノテーション dénotation)」とは、「意義(シニフィカシオン signification)」のことで、《構成された構造》としてのラング(langue)に見出される意味、辞書に見出される「語」の定義に近い抽象的な意味で、その言語社会によって許容され、沈殿した、いわば歴史的化石としての最大公約数的な意味群である。

これに対して、「共示(コノテーション connotation)」には3つの意味がある。

1つ目は、一言語内の個々の語ないし記号素に宿る個人的・情感的なイメージである。たとえば、「病院」という言葉に対する情感的意味は、幼少期から病院暮らしを強いられた人、家族や恋人を病院で死なせた人、一度も病院通いをしたことのない人では異なる。

2つ目は、一定期間のラングに見出される共同主観的付随概念である。たとえば、ナチス時代のドイツ人は「ユダヤ人はユダヤ人さ」という言葉を使っていたが、前者のユダヤ人は「ユダヤ民族に所属する国民」という外示であり、後者のユダヤ人は「けちで、ずるく、不正直な人間」という共示である。

これらは、いずれも本質的言語ではない。

3つ目は、言語の階層の差から生まれる第二次言語に属し、表現面(シニフィアン signifiant)は既成の第一次言語だが、内容面(シニフィエ signifie)が既存の意味体系にはもともと存在しなかった《意味(サンス sens)》にほかならない。

文学作品のもつ意味というものは、語のもつ常識的な意味によってつくられているのではなく、むしろそれを改変するのに力を貸しているものなのだ。したがって、聞いたり読んだりしている者の側にとっても、あるいは話したり書いたりしている者の側にとっても、主知主義的などのはかり知れない、コトバのなかの思考というものが存在するのである。

ソシュールは、一次的な日常的な言語を止揚した文学言語が第二次言語(本質的言語)であるとは考えず、第二次言語と呼ばれるものにこそ本質的なコトバの姿であり、それが惰性化したものがいわゆる第一次言語(制度的言語)であるという認識を定立化したのだ。

2016.02.06 | | トラックバック(0) | コメント(4) |

若狭勝衆議院議員は、川崎の中1殺人事件の被告への求刑に、不満があるようです。

ほぼ1年前、川崎市の河川敷において、中学一年生が、絶句するような方法で殺害された、いわゆる「川崎・中一殺害事件」の裁判員裁判において、昨日、19歳の被告人に対し、短期懲役10年から長期懲役15年の求刑がなされました。(少年の場合、成人と違って、求刑や判決は、不定期刑といって、短期いくら、長期いくらという幅をもった形でなされます)。

     (中略)

少年法改正の動きも取り沙汰されていますが、これだけ酷い今回のような事件において、無期懲役を選択しない場合の次に重い刑が、長期でも懲役15年というのでは、天国の被害者が聞いて愕然として嗚咽しているのではないか、との思いになり、私は、何ともやり切れません。

これでいいのか、川崎・中1生 殺害事件の求刑!

この方のように、重罪化に賛成の人の方が多いようですね。

オイラ的には、自分の家族が殺されたわけでもないのに、なぜこんなに怒っているのか?よくわかりません。

犯罪加害者の社会復帰の道を狭める重罰化は、社会防衛という観点からすると、たいへん危険なことを忘れてはなりません。

とくに、少年は、成人と比較して、再犯率が低いので、なるべく社会復帰させた方が、社会防衛のためにはよいのです。

重罰化を望む人たちは、社会から排除されて捨て鉢になった元犯罪加害者によって、自分や自分の家族、知人が犯罪に巻き込まれるなんて、夢にも思ってないんでしょうね。

2016.02.06 | 時事ネタらしきもの | トラックバック(0) | コメント(0) |

HKT48の新年会の画像。一部ヲタの間では保護者会と呼ばれている。




まーちゃん(森保まどか)&まーさん(今村麻莉愛)が親子に見えるらしい。

「まーちゃん」が親で「まーさん」が娘って、なんか逆だな。w

2016.02.06 | ├ まどちゃん(森保まどか) | トラックバック(0) | コメント(0) |