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烏賀陽弘道さんに対する批判はココで書きましたが、

入試に出ていたAyuタソ

さらに、烏賀陽さんに関する疑惑が浮かんできました。それは…

斎藤環・著『戦闘美少女の精神分析』(ちくま文庫、2006年)

この本を読んでいないという疑惑。w

読んでもいない本を引用できるなんて、さすが「築地踊り」をしていた人ですね。w

じつはオイラもまだ半分しか読んでないんですけど、半分でもわかることってあるんですよ。w

著者の斎藤さんは、この本のなかで繰り返し、「『闘う少女』が、欧米映画に登場するアマゾネス的な成熟した戦闘ヒロインとは明らかに異なる、日本独特の現象であることを指摘している」のです。

…って、この部分は、じつは烏賀陽さんの本からの引用です(烏賀陽弘道・著『Jポップの心象風景』文芸春秋、2005年、182ページ)。w

なんだ、ちゃんと読んでるんじゃん。…って思うでしょ。ところが、つぎの部分が完全に欠落してるんです。ちょっと長くなるけど、引用します。
  さて、精神分析では「ファリック・マザー」という鍵概念がしばしばもちいられる。これは文字どおり「ペニスを持った母親」を意味しており、「権威的に振る舞う女性」を形容する場合に使われることもある。いずれにしても、ファリック・マザーは、一種の万能感や完全性を象徴している。たとえば欧米圏のタフなファイティング・ウーマン達は、そのほとんどがファリック・マザーと言ってよい。ところで私はこうしたアマゾネス達との対比から、戦闘美少女たちを「ファリック・ガール」と呼ぶことにしている。

  小谷真理氏は以前、ファリック・マザー達がなんらかの傷──例えば「レイプ」のような──を負っているのではないかという、きわめて示唆にとむ指摘をしている。私は氏の言葉から、ひとつのヒントを得た。ファリック・ガールには外傷がないのではないか? ふたたび『ナウシカ』に眼を転じてみる。とりわけ、トルメキアの女王クシャナと風の谷のナウシカを対比してみるとき、われわれはどちらに「共感」することができるだろう。そう、いうまでもなくクシャナのほうだ。もちろんクシャナは、西欧的文脈に忠実な意味でのファリック・マザーである。彼女はすでに兄弟の裏切りなどによって、多くの外傷を体験してきている。極めつけは、王蟲によって文字通り外傷を受けた彼女の身体である。まさにクシャナは、王蟲によってレイプされた存在なのであり、われわれは彼女がそれゆえに戦うのだと、ごく自然に納得することができた。そしてわれわれがクシャナに魅了されるとすれば、その欲望はまず、彼女の「外傷」に向けられるだろう。この構図には、われわれが日常的にヒステリーに魅了されるさいの欲望の図式を、そのまま適応することができる。

  いっぽうのナウシカはどうか。彼女の行動には不可解な点が多い。彼女がなぜ、あれほどまでに玉蟲を愛し、みずからの生命を投げ出してまで王蟲の子を救おうとするのか。それは感動的ではあるが、そのときわれわれは倒錯的な自己犠牲に感動していたのかもしれない。ナウシカの行動には、個人的な動機による裏付けがなく、そのぶん空虚なものにも見える。なぜだろうか。

  ナウシカには「外傷」が存在しない。なるほど彼女は、物語の冒頭近くで、トルメキアの兵士らに父王を殺され、激情に駆られて数人の兵士を瞬く間に殺してしまう。殺害のシークエンスは、ユパが身をもっでそれを制することで、ようやく停止する。この「父王殺害」こそが、ナウシカの「レイプ」であり「外傷」なのではないか。そう解釈することも可能に思える。しかし想起してみよう。ナウシカが敵を殺傷するシーンで、何が明らかにされているか。そう、それは彼女の戦闘能力が、すでにスキルとして十分完成したものになっているということだ。そこには幾多の実戦によって鍛えられた可能性すらうかがえる。そして、もしそうであるなら、ナウシカはこの唯一の「外傷エピソード」以前からファリック・ガールだったのだ。

  物語の後半、ナウシカは王蟲を保護すべく戦う。そこにはもはや、いかなる外傷の痕跡もない。おそらく彼女は、決してレイプされることのない存在なのだ。「レイプされることのない存在」、言い換えるなら、いかなる実体性をも持たない「存在」ということである。われわれはナウシカに「外傷とその反復、あるいは回復」といった、通常の意味での物語、それも神経症的な物語を読みとることをしない。それはなぜか。

  「レイプ」の外傷性を根拠として戦うファリック・マザーに比べ、ファリック・ガールの戦闘には、十分な動機が欠けている。第五章で詳しく検証したように、ファリック・ガールが登場する作品は一三の系列のいずれかに分類できる。第五章の表を参照すれば明らかなように、このいずれの系列においても、少女の外傷や復讐が主題となることはほとんどない。もちろん一話完結を基本とするアニメ・漫画作品において、外傷とその回復ないし復讐は主題になりにくいという事情もあるだろう。しかしもちろん、それだけではない。おそらくすべてのファリック・ガールは、徹底して空虚な存在なのだ。彼女は、ある日突然、「異世界」に紛れ込み、何の必然性もなしに戦闘能力を与えられる。彼女の戦闘能力は──ナウシカがそうであるように──説明を欠いた自明の前提となっているか、あるいは「唐突に-外から-理由なく」もたらされる。いずれにしても、このとき彼女があたかも巫女のような位置におかれていることには異論が少ないだろう。巫女とはすなわち、異世界を媒介するメディアのような存在を意味する。そう、彼女の発揮する破壊的な力は、彼女の主体が操るものではなく、異世界間ではたらく一種の斥力のような作用を体現しているのではないか。だから媒体(メディア)としての彼女が空虚であるのは、むしろ当然のことだ。このように「空虚であること」によって欲望やエネルギーを媒介する女性は、私を含む一部の力動精神医学者によって「ヒステリー」と呼ばれるだろう。

  ファリック・マザーが「ペニスを持つ女性」なら、ヒステリーとしてのファリック・ガールは「ペニスに同一化した少女」だ。ただし、そのペニスは空洞のペニス、もはやけっして機能することのない、がらんどうのペニスにほかならない。そのことを端的に証すのは、すでに何度か言及してきたアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のヒロイン「綾波レイ」である。彼女の空虚さは、おそらく戦う少女すべてに共通する空虚さの象徴ではないか。存在の無根拠、外傷の欠如、動機の欠如……。彼女は、その空虚さゆえに、虚構世界を永遠の住処とすることが出来る。「無根拠であること」こそが、漫画・アニメという徹底した虚構空問の中では逆説的なリアリティを発生させるのだ。つまり彼女は、きわめて空虚な位置に置かれることによって、まさに理想的なファルスの機能を獲得し、物語を作動させることができるのだ。そしてわれわれの欲望もまた、彼女の空虚さによって呼び覚まされたものではなかったか。

斎藤、前掲書、312~317ページ


外傷=トラウマゆえに闘い続けるファリック・マザーと外傷なしに闘い続けるファリック・ガール。Ayuがどちらにより近いかは歴然であろう。1998年12月28日に放送された「浜崎あゆみのオールナイトニッポン ~浜崎あゆみはバカじゃない?!」以来、『ROCKIN'ON JAPAN』(vol.201, 04 APRIL 2001)、『浜崎共和国』(“Free & Easy”5月号別冊 2002年)と彼女が語ってきたのは、過去の外傷=トラウマだったのではないか。

ゆえにAyuを戦闘美少女と位置づけることは論理的に無理がある。…のです。

では、なんでこんな文章が書けるとかというと、彼自身が本を読まず、アシスタントに読ませて、どーゆー内容だったかを聴いて書いた。でも、そのアシスタントが「おバカ」でこの部分を知らせなかった。あるいは、彼自身の理論と矛盾するので、ちゃんと読んだけど(あるいはアシスタントから知らされたが)、シカトした。…としか思えない。

いずれにしても不誠実な態度です。w

思うに、烏賀陽さんは、Ayuファンが、自分の書いた文章は読むけれど、引用された本まで読む、とは思ってなかったんじゃないのかな? なめた態度ですよね。

この「不誠実」かつ「なめた」態度が、「築地踊り」に起因し、今回の訴訟問題に至っているのではないか、と愚考するしだいです。w

2007.01.05 | Ayu(浜崎あゆみ) | トラックバック(0) | コメント(0) |












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