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須貝誠氏の《「登場人物の気持ちを答えよ」という国語の授業が大間違い》との主張に対して、あすこま氏が反論している。

須貝氏の主張は以下のとおり。

物語文の登場人物の心情を問う授業では、文章中に直接的な心情(嬉しい・悲しいなど)が書かれていなければ、正確に読み取らせられるとは言えないのだ。

繰り返しになるが、最初に書いたように、同じ物を見たり、同じことを経験したりしたとしても、人の思いは様々だからだ。

学校の国語の物語文の授業では、心情を表す直接的な表現がなければ、心情を問う授業をするのは不適切だと言える。

「登場人物の気持ちを答えよ」という国語の授業が大間違いなワケ

あすこま氏の反論は以下のようにまとめられる。

  1.物語の解釈は自由でも、解釈の幅は存在する。なぜなら、僕たちは、同じ文化を共有する共同体のメンバーであり、解釈の幅は、共同体のコードが決めるからだ。

  2.物語文にも読み取りのコードが存在する。だから、直接書かれていない人物の心情も読み取れる。

  3.教室とは、解釈共同体のコードを教える場である。だから、本当に「的外れ」な解釈が出てきた時には、「本当にそうかな?誰々君はどう思う?」とやんわりと否定したり、スルーしたりする。

  4.しかし、共同体の解釈のコードは、時代とともに形成され、変化する動的なものである。また、解釈共同体は唯一のものではない。そのコードや解釈共同体を相対化し、揺さぶる経験も必要なのかもしれない。


「直接書かれていない心情を答えさせるのはおかしい」という意見に大真面目に答えてみました
登場人物の気持ちを読者が理解するには、登場人物と読者が解釈共同体の共通のコードを有していなければならない。このことを立川健二はウィトゲンシュタインを通じて以下のように説明している。

 ウィトゲンシュタインの探究は、(相互に関係しあう)ふたつの重要な立場変更を含んでいる。ひとつは言語の基礎づけを、独立したものとして考えられた個人の主観に求めることをやめ、それを社会へと移すことである。

     (中略)

 もうひとつの、おそらくより重要な立場変更は、聴く立場から教える立場への移行として表わされる。〈意味〉の了解を主体による〈体験〉として考える限り、われわれは聴く立場に立っているのであり、そのとき意味は常に既にそこにあるものとして現われる。言語ゲームは既に習得されており、われわれはいわばひとつの共同体に属している。それゆえ対話者相互の関係は対称的で透明なものと見える。しかし人がもしこの聴く-話す立場を離れるならば、まさしく言語ゲームが訓練され習得される現場へと向かうならば、すなわち教える-学ぶ立場へと移行するならば、事態はまったく異なる様相を呈するだろう。コミュニケーションを支えているかに見えた共通のコード、規則はもはや存在しない。なぜならばまさにそのようなコード、規則こそが学ばれねばならないのだから。いまだ自分と同じ共同体に属さないものと向き合うなかで、言語、コミュニケーションのもつ本来的な危うさ、無根拠性が露出する。

立川健二・山田広昭[著]『現代言語論 ―ソシュール フロイト ウィトゲンシュタイン』(新曜社、1990年) p.158-160

共通のコードを有しているのならば、「言語ゲームは既に習得されており、われわれはいわばひとつの共同体に属している。それゆえ対話者相互の関係は対称的で透明なものと見える」。これを《聴く-話す立場》と呼んでいる。

しかし、共通のコードを有していないならば、「いまだ自分と同じ共同体に属さないものと向き合うなかで、言語、コミュニケーションのもつ本来的な危うさ、無根拠性が露出する」。これを《教える-学ぶ立場》と呼んでいる。

須貝氏は、共同のコードの存在・不存在を問うてはいないので、登場人物が気持ちを表現していないのならば、それを理解できないとする立場なのであろう。

一方、あすこま氏は、共通のコードが存在しているので、登場人物の気持ちを表現が無くても理解できるという立場である。ただし、子どもが共通コードを持っていないので、その存在を教えなければならないとしている(教える-学ぶ立場)。また、共通コードの不存在を考慮する必要もあると考えているようだ。

オイラは学生から大学院時代に歴史学を学んできた。歴史上の人物は、共通のコードを持たない「他者」であり、多くはすでに亡くなっているので、こちらのコードを「教える」ことはできない。もっぱら歴史研究者があちらのコードを「学ぶ」しかないのである。

歴史上の人物は、(1)歴史的に形成された自然(人と自然との関係の歴史性)、(2)歴史的に形成された人と人との諸関係(その総体が社会である)、(3)歴史的に形成された慣習・伝統・道徳・法・権力機構などに三重に外部を取り囲まれ、歴史によって形成された人間的能力、知識、倫理観、美意識、信仰などによって内部を満たされた、歴史制約的な存在なので、(1)~(4)を学ぶことで、彼らの気持ちを理解するしかない。

思想としての歴史学



以前、役になりきれなくて困っていたたぬたぬの話を書いた。w

「他者」との遭遇

「かんざらしに恋して」を見た

たぬたぬと舞香には共通のコードがないから気持ちが理解できない。

どうもこちらのコードをむりやり舞香に「教える」ことで、役を自分のものにしようとしたが、うまくできなかったようだ。まあ、舞香は、実在しないので、抗議はなかったようだ(演出家が諦めた)。w

たぬたぬに必要なのは、むしろ「学ぶ立場」で、歴史研究者が歴史上の人物にしているように、舞香のような人間が生まれてくる条件を知ることなのだ。せっかく頭がいいのだから、それを演技に活かせよ!ってこと。w



話をもとにもどすと、物語の登場人物の気持ちを理解するには、登場人物と読者の間に共通のコードが存在するかどうかが問題で、存在するのなら推測可能となるが、不存在の場合、相手方のコードを学んだうえで推測するしかない。というのがオイラの答えだ。

2019.02.22 | ├ 言語学ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |












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