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先日、某動画サイトにアップされていた大河ドラマ「元禄太平記」(1975年)の総集編を見た。柳沢吉保を石坂浩二、大石良雄(内蔵助)を江守徹が演じていた。


柳沢吉保役の石坂浩二


徳川綱吉役は芦田伸介


大石内蔵助役の江守徹


討ち入りのシーン


吉保の甥・柳沢兵庫役の竹脇無我


オモシロかったのは、赤穂事件(忠臣蔵)塩田原因説というのがあって、大河ドラマ「峠の群像」(1982年)で堺屋太一あたりが広めたわけだが、「元禄太平記」も塩田経営が原因とされていた。
「元禄太平記」における松の廊下事件の原因は、塩田経営の成功を試みる柳沢吉保に取り入るため、吉良義央(上野介)が浅野長矩(内匠頭)に領地替えを勧めたのを浅野が拒否したことから、吉良が浅野に嫌がらせをしたことになっている。

ところが、この説は、実証に耐えられず、完全に否定されている。

 江戸城松の廊下にて、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を斬りつけた刃傷事件の原因を、塩田にまつわる確執に求める説があります。吉良義央が入浜式塩田の先進地であった赤穂に、製塩法の指導を願い出ましたが拒否されてしまいました。これに立腹した義央が、勅使饗応役を拝命していた浅野長矩に対し、儀式典礼を司る高家の立場を利用して故意に恥をかかせたとされます。浅野は吉良に対する恨みから、刃傷事件に至ったとする説です。

 この説の初出は戦後とされ(『赤穂義士事典』赤穂義士事典刊行会 昭和47年)、NHK大河ドラマ『峠の群像』(堺屋太一原作)で取り上げられたことなどを通じて広く一般に認知されるようになったようです。

 吉良義央が刃傷事件に遭遇した元禄14年以前に、既に開発されていた幡豆郡の塩田は、本浜及び白浜のみです。このうち、本浜塩田が所在する吉田村は甘縄藩松平領、白浜塩田が所在する富好外新田村は幕府領で、いずれも吉良領ではありません。「忠臣蔵」塩田説では、吉良義央が元禄元年(1688)に妻富子の眼病治癒を期に干拓を行ったと伝えられる富好新田に塩田が築かれたと説きますが、元禄7年に富好新田の海側に接する白浜新田の開発が開始されるため、内陸側に位置する富好新田で大規模な塩田が営まれたとは考えにくい状況です。富好新田の享保16年(1739)の年貢割付状には、塩田に関連する税が徴収された記載は認められません。江戸時代の幡豆郡では、複雑に大名領・旗本領などが村ごとに混在しており、赤穂藩のように領主が大規模な塩田開発を奨励し、積極的に塩の販売を行ったとは考えにくいようです。また、塩の販路については、赤穂塩が廻船によって江戸の他、各地に流通したのに対し、吉良の塩は三河以外に知多の醸造業や信州伊那谷方面に流通した程度で、生産量は赤穂をはじめ瀬戸内産には遠く及びませんでした。

忠臣蔵塩田原因説

歴史を勉強していると、「今そうだからといって昔からそうだとは限らない」ことが多い。

2019.05.22 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |












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