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平山優氏によると、以下のとおりだったらしい。

大仏開眼供養の開眼師が仁和寺(真言宗)門跡だったので、真言僧が「左座」に座り、天台僧が「右座」に座ることになった。同日に堂供養も行う予定だったが、それだと天台僧はそのまま「右座」に座らせられるので、嫌だとボイコットした。

豊臣方の片桐且元と幕府方の板倉勝重が相談し、天台僧を「左座」とする妥協案を出したが、家康は開眼供養と堂供養を別の日に行なう解決案を出した。ところが、片桐も板倉も同日開催を主張したため、家康は改めて吉日を選んで執行するように延期を命じた。

その際、鐘銘の写し(国家安康・君臣豊楽)が家康の下に届けられたが、家康の諱が刻まれていることは問題になったが、引き裂いて不吉は問題にならなかった。

しかし、幕府と豊臣方の話し合いが難航し、その間に豊臣方による片桐の暗殺計画が発覚して、大坂の陣が起きてしまう。


以下は平山氏のポスト…
大坂の陣のきっかけで知られる「方広寺鐘銘問題」ですが、実は大きく揉めたのは、その前段階の問題が大きい。豊臣方は、大仏開眼供養と堂供養を同日に挙行しようと考えていた。ところが、天台僧と真言僧とが、供養の際に、どちらが「右座」「左座」に着席するかで揉め、問題となった。席次の順序は、上位と下位をはっきりと見せることにつながるため、以前から双方はしばしば紛争を引き起こしていた。それが再燃した。 #時代考証の呟き #どうする家康

大仏開眼供養では、開眼師は仁和寺門跡が行うことになっていたため、真言僧らは仁和寺門跡に従って「左座」に、天台僧は「右座」に着座することになっていた。だが、「堂供養」も同日に行うことになれば、席次がそのままで執行されることとなり、天台僧は「右座」のままとなる。そのため、天台宗は参加しないと主張した(これは天海が言上した)。ここから話が拗れることになる。

そこで、豊臣方片桐且元と、幕府方板倉勝重が相談し、豊臣方の強い意向を尊重しつつ、開眼供養と堂供養は同日執行すること、席次は天台宗を「左座」とする妥協案が示された。この報告を受けた家康は「供養を同日に行えば騒動になる」と懸念を示し、「三日には本尊の開眼供養を実施するに留め、十八日に堂供養を行うほうがよい」と述べ、供養の日をわけるように求めた。これは天台宗と真言宗の対立を回避し、円満に供養を執行するためには極めて穏当な解決策だった。

だが豊臣方片桐且元と幕府方板倉勝重はともに、同日執行を主張したため、家康はすべてを延期し、あらためて吉日を撰び執行するようにと指示した。この押し問答の過程で、家康のもとに棟札の下書き、梵鐘の銘文の下書きなどが示され、いずれも当時の規則に沿わない内容であると、問題視されることとなった。

近年、注意が喚起されているのは、鐘銘問題のために、開眼供養などが中止させられたのではないこと。この問題は、家康が、二つの供養の分離と、問題が収まるまで供養の日程を延期し、吉日を撰び直したうえで挙行することを指示したあとに発生したということ。

そして、当時の一次史料である『本光国師日記』などによれば、棟札に棟梁の名が明記されぬ異例な内容と、鐘銘の「御諱」が記されていたことが問題となった。それをみると、「国家安康」が「家康」の諱を割く不吉なものであるとの記述は一切ないのである。あくまで問題なのは、「御諱」を書き入れることそのものであった。

つまり世情よく知られる「国家安康」「君臣豊楽」は、問題にされていなかったらしいのだ。このことを言い立てるようになるのは、後のことらしい。その後の経過をみていくと、確かに「御諱」を記入するのは問題があると指摘され、銘文を起草した清韓自身も家康の諱を入れたことを認めていた。このこともあって、家康が気分を害したことは確かである。

ただ、家康が開眼供養などの儀式を中止させたという事実はない。あくまで延期であった。そして、豊臣方と幕府の折衝が始まり、決裂に至り大坂の陣へと行き着いてしまうのである。家康は、自分も上洛して方広寺の儀式に臨席するつもりであったらしい。また豊臣秀頼の上洛と臨席についても「いかようにも秀頼の心次第」と歓迎する姿勢をみせていた(『本光国師日記』慶長十九年七月十八日条)。

家康が求めたのは、自分が上洛するまで儀式を延期することであり、秀頼の臨席も当然のこととみていた。場合によっては、上洛して豊臣方と直に交渉することも予定していたのではないだろうか。もしうまくいけば、家康と秀頼が並んで供養の儀式に臨席していた可能性もあったのだ。

だがその後の豊臣方と幕府の交渉が難航し、片桐且元を豊臣家中が暗殺しようと企図し、失脚に追い込んだことで、開戦となってしまった。このあたりの新研究は、河内将芳先生の『秀吉没後の豊臣と徳川 京都・東山大仏の変遷からたどる』淡交社・2023年に詳しい。私も、七年前の著書『真田信繁』では、通説に乗っかって記述しており、今では修正が必要である。

2023.11.29 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |












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