こんにちは、○○さん。
まあ私の問題提起への回答があまりされていない(特に一番肝心な点が)ご回答ですが、そもそもここはかるばどすさんの個人サイトなので、あまりこういう議論が続くと、ちょっとまずいのではないかとも思うので下火にするのは良いことかもしれません。
中国まで使者を送り、もっとも位の高い金印を授かった以上、それだけ大きな力を持った国と判断されていたと思いますが。
一里=三百歩という公式があります。短里で計算すると一歩=24センチぐらいであり、百歩=24メートルということになります。周りの施設(柱の跡などがあります)を含めて24メートルはあり得ると思います。
それと、これは何故かあまり聞かないのですが、古代の天皇(おおきみ)は、なんであんなに大きな墓を作ったのでしょうね。世界的に見てもあそこまで大きな規模の墓が、継続的に作られ続けたというのはあまり例がないように思います。まあ技術的に言えば、天然石に近い石材で墓室を作ってその上に盛り土しただけの簡単な物ですが、その量はすごいし、投入された労働力も相当な物です。
福岡には太宰府を防衛するために作られたと言われる水城という(全長1.2km、64万トンもの土を使ったと言われる。ちなみに南などにも同様な土塁があったらしい)巨大な盛り土の壁がありますが、仁徳天皇陵などこれに匹敵するマンパワーが必要だったと思われます。
墓と言えばエジプトのピラミッドは墓ではないというのが現代の通説ですし、王家の谷の墓は、大きさで言えばそれこそ平原遺跡とさほどに違いはないですし。
日本が影響を受けたであろう半島ですが、私は以前韓国に行って向こうの古墳を見たことがありますが、こぢんまりした物でした。高句麗の好太王か長寿王の墓と言われるものも一辺が31.6m、高さは12.4mあり、1100個の花崗岩を7段に積み上げられたものですが、高句麗最盛期の王の墓さえこの程度です。この墓と比べても遙かに大きいですね。
秦の始皇帝陵等、中国の皇帝陵はさすがに巨大ですが、中国のものを基準にするわけにはいかないでしょう。
こう比較していくと、天皇陵の異常な大きさが見えてきます。日本人は天皇陵が普通と思い込んでいて、これを基準に大きい小さいと言いますが、むしろ平原遺跡の方が墓としては普通に思えます。
このような巨大な墓を作った理由を推測すると、ひとつにはもちろん一般大衆に対して大君の権威を見せつけるため。もうひとつは、いざというときの動員力を見せるためでは無いのでしょうか。いわば動員力のデモンストレーション、つまり兵力の誇示です。逆に言えば、デモンストレーションを常時やらなければいけないほど、戦の少ない平和な国だったように思えます。実際、近畿地方に大規模な戦争があったような遺跡はなかったと思います。
九州に大きな墓が少ないのは、もちろん半島にそんな大きな墓が無かったこともあるでしょうが、半島の領土を保持しないといけない必要から、常時、半島の他国に対して緊張状態にあったからではないでしょうか。後の好太王碑文なんかを見ても、倭はしょっちゅう半島で武力衝突を起こしてますし。マンパワーがそちらに向けられ墓のようなものにそこまで力を注ぐ余裕がなかったように思えます。
逆に言えば、もし半島の領土の責任が近畿にあったとしたら、あそこまで巨大な古墳は作られなかったような気がします。
大きな権力を持った王の墓は生前に作られる物ではないでしょうか?天皇陵に比べれば小さいと言っても、一週間やそこらで作れる物でもないでしょうから。
そうですが「女王国の支配を受けてきた」と記載されています。そもそも伊都国は記述によればかなり重要な国なのに千戸しかない非常に小さな国(まつろ国でさえ四千戸)であり、事実上邪馬台国の一部であった可能性もあります(フランスとモナコのようなもの?)し、糸島半島の南半分は邪馬台国領であった可能性もあります。千戸なら北半分だけでも広すぎるぐらいです。
>たぶんその刀は平原方形墓から出土したはずですよ。ただし、魏の1尺は 24.12cmなので、五尺刀は120cmくらいじゃないでしょうか。平原方形墓の刀は75cmなので、ちょっと小さいようです。現在見つかっている3・4世紀の刀で1mくらいのものは、伯耆・宮内刀が94cm、丹波西紀町内場方形墓の100cmだったと思います。
なるほど、ご存じないようですね。
平原遺跡から出土したのは、80.6センチの小振りの刀です。おそらく女性が使うのはこのくらいが限界というところから、この埋葬されていた「伊都国女王」が日常的に使っていた物と思われます。
全長115センチ(だったと思います)ある同じ様式の刀が、近くの遺跡から発掘されているのです。これは伊都国歴史博物館の鏡などを陳列している部屋に一緒に陳列されているので、見ればすぐに判ります。こんな大きな刀、鍛えられた男でも、振り回すのは骨だと思いましたね。実際に見て、また真剣を振り回したことがある人間としては。
あるいは、短い刀は2本の内の一本を短く切ったのかも知れませんが。大刀は、家臣なり兄弟なりに下賜したのではないでしょうか。
纏向遺跡については、規模で言うなら福岡市の奴国遺跡からは全長2kmに及ぶメインストリートが発掘されており、そこまで大きいという感じはないです。
疑問なのは、都市と言うよりも祭礼施設のように思えることですね。箸墓古墳を始め、大古墳がいくつもそのなかにあるというのも都市としては異様に感じます。まあ今後の発掘の進展に従って新しいことも判ってくるでしょうけれど。
なるほど、つまり中世のヨーロッパにおいて、ローマ教皇を頂点として、神聖ローマ帝国皇帝がいて一応の統一されたタテマエはありますが、実際の政治は各国の王等によって行われていたのと同じような物と考えて良いのでしょうか?大和はローマでしょうか。
ただ、そうすると、魏志倭人伝において、「一大率の官がおかれて国々を監視し、国々はそれを畏れている。−中略−ちょうど中国の刺史のような権威を持っている」という記述と合わないように思いますが。また、以前は各国の王と思われる人たちが、「長官」になっていたこととも合わないように思います。
実際、そうなっているのは「共立」と言っても、かなり力を背景とした半強制的なものであったように感じられます。
それだけ「邪馬台国」は倭国内で他国より抜きんでた力を持っていたのではないでしょうか。例えて言えば戦国時代末期の織田家みたいなもの?
実際、「倭国大乱」が均衡した戦力の国同士の話し合いだけで治まったとは考えにくいように思えるのですが。後の戦国時代などの例を考えても。
もうひとつ、半島南部までもそういうゆるい連合で、成り立てたのでしょうか?この頃、半島内部は戦乱の時代です。なにせ、帯方郡太守が戦死するような時代なのですから。そういう半島で倭国領を守るのは大変だったと思うのですが、なにか、纏向遺跡にはそういう緊張感が感じられないのですね。倭国の首都だったと考えるには。
私としては、九州は半島の方に意識が向いていたため、その間に、本州の方にそういうゆるい連合形式の国家が誕生したというのならば判るのですが。もちろんその場合は、それは邪馬台国ではないですが。
弁辰の中に鉄鉱石の産地があり、そこから韓、倭、わいは鉄をとっていたという記述が東夷伝にあり、鉄の供給という意味でも半島は重要だったと考えられます。
むしろ、本州は、半島との間に倭国(九州、半島南部)があったので、半島とのトラブルはすべて倭国が引き受けたために、のびのびと発達できたというのが真相ではないかと思えるのですが。だからああいう大古墳が作れたと。
倭国は、「一回り五千里の孤立した島嶼」と、倭人伝にははっきり書いてありますし。これはやはり九州でしょう。どう考えても。
それにしても、そもそも何故「邪馬台国論争」などが始まったのでしょうか?(後略)
虚心に「魏志倭人伝」を読めば、九州以外にはあり得ません。何しろ、総距離が1万二千里と書いてあり、どう計算しても九州までであって近畿には行き着かないのですから。他の要素もことごとく九州であることを示しています。疑問の余地はありません。本来なら「論争」など起きようもなかったのです。なのに何故近畿説などが生まれたのでしょうか。
その理由を考えますに、江戸時代の鎖国下でプチ中華思想が蔓延した島国ニッポンの「学者たち」の、「三世紀頃の日本は、近畿地方におわす天皇陛下がしろしめしていたのは明白であり、それ以外の考えなどあり得ない」という皇国史観によってたつ判断によって、魏志倭人伝は思いっきり曲解されたのではないでしょうか。
それに比べれば、本居宣長の「九州の蛮族の女酋が勝手に日本の代表を名乗ったもの」という解釈の方が、言い方には思いっきり問題がありますが、真実に近かったと言えます。好意的に見れば、こういう言い方は皇国史観にどっぷり浸かっている他の学者の手前、やむを得なかったととれないこともないでしょう。真相は知りませんが。
しかし江戸時代や、戦前の「学者」がそういう考えなのは仕方がないと言えますが、現代にいたるも江戸時代と大差ない考えを振りかざす人が少なくないのは何故なのでしょう?先生の教え(学説)を大事に守っていくのが弟子の使命であるという日本の学会に見られる因習が、江戸時代からえんえんと続いているのかもしれません。
ウィキペディアの「魏志倭人伝」の項目には帯方郡から邪馬台国までの道筋が1から9まで細かく解説してありますが、郡から女王国まで万二千里という記述について書かれていないのですね。本来なら「1」で解説するべき重要事項と思うのですが。
しかし全く書かないのはまずいと思うのか、別の項目についでのように書いてあります。
こういう姑息な「総距離記述隠し」は、様々な「邪馬台国解説本」で見て取れます。私もこういうやり方に引っかかって「陳寿の曖昧な記述のために邪馬台国の位置は判らない」などと思っていたわけですね。陳寿にすみませんと思いますね。
しかし、本当に何故いまだにこういうことが続いているのでしょうか?単に学者の因習のためなのでしょうか?そうなのかもしれませんが、「学者」によって作られた日本史の常識を疑ってみるべきかもしれません。
そのひとつが、いわゆる「九州王朝説」でしょう。私としては、この説は半信半疑と言うところです。しかし中国の正史である「旧唐書」に倭国伝と日本伝が別々になっていて、このふたつは別の国と認識されているという記述を第一の論拠としているそうです。
ならば、少なくとも仮説としてはありうると思えますのに、日本の学会は全否定、黙殺の構えです。それも唱えた学者がちょっと間違えたことにつけ込んで全否定したらしいですね。それは学者として正しい態度とはとうてい思えません。仮説として認めた上で、是非を検討するべきでしょう。
というか、中国の史書がそうなっているのに、それまでその検討すらされていなかったというのは、学者としてあまりにも怠慢ではないでしょうか。よくあるあやしげな本を元にした説ではないのですから。日本の歴史学者はいまだに江戸時代の皇国史観の婢のままなのでしょうか。
正直言って、こういう「学者たち」の「定説」なるものに、非常にうさんくさいものを感じないわけにはいきませんね。
まあ結局どちらが正しいにせよ、九州が大和朝廷の支配下に組み込まれたのが、3世紀以前か以後か、あるいは7世紀以後かであって、どっちにせよ千年以上前のことです。今に生きる人間にとって、どちらでもたいした違いはありません。なのに彼らは何を恐れているのでしょうかねえ。
これは2つの別のレスだったもので、途中の線がその境目です。
この人(Cさん)とは別に伊都国が邪馬台国だと主張する人物(Sさん)がいるんですが、彼もレスしてきました。
邪馬台国の議論は結局議論倒れになってしまうのを何度も経験したので引き際が大事だと思ってしまいます。
「五尺刀」についてですが記憶が正しければ119センチだったと思います。小数点以下は忘れました。発見されたのは上町向原遺跡です。
ある考古学者が「五尺刀」と同じ長さと指摘されていますが、卑弥呼が貰った「五尺刀」とは断言されていません。残念ですがこの方は畿内説の方です。
なぜか、両氏とも戦意喪失気味ですね。
じつは、Sさんは自分たちに都合の悪い情報を持っていたのですが、それを明らかにすると不利と見たか、隠しています。
もちろん、それを見逃すことはできないので、いちばん最初に触れておきました。
また、何を思ったのか、Cさんは、邪馬台国論争の(それも偏見に満ちた)説明をはじめたので、そこを攻撃しました。彼が邪馬台国論争についてはほとんど無知であることを知らしめるためです。
さらにさらに、彼は、いまやトンデモと見なされている「九州王朝説」まで持ち出し、擁護しはじめたので、それも攻撃目標となりました。
なんでトンデモない方向に自ら進むんでしょうかね?(爆)
上町向原遺跡の五尺刀についてですが、Sさんのサイトに「二世紀だったと思います」と書いてありました。いくら捜しても「3・4世紀の列島出土の刀剣」にないはずです。
Cさんの邪馬台国論争の説明にも問題があります。
Cさんは、本居宣長を高く評価しているようですが、「非なることいとおおし」「非なるをも皆実とならむと思うは、いと愚也」と「魏志」に低い評価を与えたのは宣長その人です(『鉗狂人』天明5[1785]年)。宣長は、卑弥呼は、「熊襲などのたぐい」で、神功皇后の名を語った「筑紫の偽僭の者」であると述べているのはご指摘のとおりです。
「魏志」についての日本側からの言及は「日本書紀」の神功皇后摂政三十九年条への分注が最初だとされています。分注が9世紀はじめのものであろうと推定されているので、平安時代初期から知識層には知られていたようです。そして、神功皇后の条に分注があるように、この時代の人たちは神功皇后と卑弥呼を同一視していたのです。
同じく神功皇后=卑弥呼説を取っていたのは、鎌倉時代中期の学者である卜部兼方や、「神皇正統記」の著者である北畠親房、江戸時代の儒学者・新井白石などです。とくに白石は、「日本書紀」よりも「魏志」を高く評価し、「魏志は実録に候」と学者仲間に書き送った書状もあるくらいです。白石は、死の直前に、突然、九州説を唱えるようになったのですが、なぜそうなったのかは、本人が理由を書き残さなかったため、不明のままです。
彼らは、近畿説を奉じていましたが、べつに「皇国史観」というわけではありません。北畠親房は、「皇国史観」の元祖のように語られていますが、鎌倉時代中期までの執権政治を評価し、逆に後醍醐天皇の新政には批判的だったので、「皇国史観」とは異なった歴史観を持っていたのです。
19世紀以降は、本居宣長の影響を受けた人々が、卑弥呼=熊襲の女酋説(=九州説)を唱えるようになったわけです。江戸時代の国学者・鶴峯戊申は文政3(1820)年に「襲国偽僭考」で、那珂通世も明治11(1878)年に「上古年代考」で、宣長と同じ卑弥呼=熊襲の女酋説を唱えています。
久米邦武や白鳥庫吉は、この卑弥呼=熊襲の女酋説を否定したうえで、福岡県山門郡に邪馬台国の場所を求める、新たな九州説を唱えるようになったのです。これに対して、内藤湖南が卑弥呼を倭姫命とする近畿説を唱え、白鳥との間に論争が起きたのが、いわゆる「邪馬台国論争」のはじまりです。
中国研究者の神田喜一郎は、京都帝国大学に入学したとき、有職故実家の猪熊麻麻呂から、内藤の説は「伊勢神宮に対して大変な不敬問題」を引き起こすと脅され、久米が東京帝国大学を追放されるきっかけとなった「神道は祭天の古俗」を書いたとき、「久米の家に石を投げに行った」話を聞かされた、と書き残しています。
「皇国史観」を奉じる人たちにとっては、九州説だろうが、近畿説だろうが、天皇の「万世一系」性を傷つけるものは看過できなかったのでしょう。とくに、近畿説は、邪馬台国とヤマト政権(大和朝廷)との関係が問題となり、「万世一系」性を危うくすると見なされていたのです。彼らにとっては、卑弥呼=熊襲の女酋とみなす(宣長流の)九州説のほうが、都合がよかったのです。
「九州王朝説」についてですが、この説を唱えた古田武彦さんは、「東日流外三郡誌」(つがるそとさんぐんし)問題で信用を失ったわけです。あれは「ちょっと間違えたこと」ではなくて、偽書作成に関係してしまったのですから、当然の結果じゃないですか。
「東日流外三郡誌」は、昭和初期に建てられた民家の屋根裏から見つかったとされる和田家文書で、幕府の隠密が、ヨーロッパに渡り、ダーウィンなど歴史上の有名人に会うという奇想天外な内容で、江戸時代に書かれたはずなのに、「民活」(民間活力のこと←書かれた時期まで分かってしまう)とか、「光年」とか、ビッグバンにかんする記述があったりして、今ではまったくの偽書と見なされています。
しかし、「邪馬壹國」にかんする記述があったので、古田さんは飛びついてしまったのです。これに対して、邪馬台国九州説を唱える安本美典さん(この人の説もかなりヘンテコだが…)が偽書だと主張して論争になりました。
この文書は印刷物のみで、所有者が原本の公開を拒否しつづけていたので、怪しまれていました。そのさなか、古田さんが、江戸時代の古紙を大量に発注していたことが発覚し、偽書作成の疑いから信用を失ってしまったのです。結局、所有者が亡くなり、原本を捜したのですが、見つからず、偽書であると判断されました。
「九州王朝説」にもどりますが、邪馬台国から倭の五王までを九州に比定する説を最初に唱えたのは、前述の鶴峯戊申で、熊襲の国(=襲国)の元号の痕跡が「麗気記私抄」「海東諸国記」「如是院年代記」などにあるとして、九州年号としてまとめました。しかし、これらが金石文として出土した例はひとつもなく、後世の偽作だと考えられています。
歴史学者や考古学者が「九州王朝説」を否定するのは、「皇国史観」に囚われているからではなく、
1.史料批判など歴史学の基礎手続きを尊重していない。
2.考古学の資料分析の成果に合わない。
3.漢文の読み方が恣意的である。
4.九州王朝の歴史を記録した一次史料が存在しない。
の4点からです。
トンデモはトンデモを呼ぶ。トンデモ連合が九州説には多い、というイメージを与える戦略のように見えますが、すべて事実です。orz
じつは、それだけ、九州説が手詰まり状態にあり(考古学的成果が上がれば上がるほど、3世紀の北九州には邪馬台国跡が見つからない!)、トンデモに走らないと生き残れないというのが現状なのです。
さらに、Cさんは自滅への道を歩むのですが、つぎのものはオイラがレスする以前にCさんが書き込んだものです。
こんばんは、Sさん。
そうですね。何か、ディベートをやっているような感じになってしまいますね。
ちゃんとした人同士なら、議論の途中で問題点が浮き彫りになって、その解決法も思いついて結果としてより正しい考えに至るので、議論は有益なのですが。
人の意見を聞かない人というのは、それ以前も人の忠告を無視するタイプなので、論がまるで磨かれておらず、すぐに欠点が露わになるのですね。しかしそう言うタイプはそれでも自分の誤りを認めませんが。
ところでちょうど良かったです。あれから邪馬台国の人口の問題について少し考えてみました。よろしければ聞いてください。
まず倭国の歴史から再検討してみましょう。
言うまでもなく、西暦57年に「漢委奴國王」の金印が後漢の光武帝より授与されています。この頃の倭国は百余国でした。それから7〜80年その状態が続き、そして戦乱の時代に入り、多年にわたり戦闘が続いた。そして国々は共同して卑弥呼を女王とした。(平和な時代になった)現在使者や通訳の往来のある国が三十国。というのが「魏志倭人伝」の記述ですね。
今まで、卑弥呼は話し合いによって担ぎ出された君主であると思われてきました。しかしそれなら宮殿の周囲を城壁や柵で巡らし、兵器をもったものが護衛するという描写は変な感じがします。誰が卑弥呼の命を狙うのでしょう?
三十国のそれぞれの大きさは書いてありません。(それは韓の国々も同じですが)
あくまで思いついたばかりの仮説ですが、邪馬台国が筑紫平野にあった70余カ国を軍事力で制圧し、大邪馬台国を作り上げ、その軍事力に物を言わせて、残った29カ国を「話し合い」の場に出させ、半強制的に卑弥呼を倭の女王にするという決議を認めさせたのではないでしょうか。
前にも書きましたが、「倭国大乱」と言われるような状況から、軍事的に均衡する国々の話し合いだけで、倭国がまとまったと考えるのは無理があるのではないでしょうか。
こう思ったのは、筑紫平野にある朝倉市のこの時代の遺跡ですが、環濠が後で埋められた形跡があるという話を読んだからですね。平和になって不要になったから埋められたのだろうと書いてありましたが、平和になったからといって、せっかくあるものを埋めたりはしないでしょう。あるとしたら大阪城の例でも判るように、敵対勢力によって埋められたということが考えられます。つまり戦争に敗北したと言うことですね。
もちろんその勝者が邪馬台国かどうかは判りませんが、最終的に倭国を統一したのは邪馬台国であることは確かでしょう。
そして邪馬台国は元々は糸島半島にあり、伊都国と兄弟国であり、ここは地形的に難攻不落であって防衛の面で利が大きく、また大陸からの鉄や先進技術、先進思想をいち早く取り入れられる所であったために、倭国統一を成し遂げられたのではないか。もちろん卑弥呼の傑出した力量あってのことですが。
つまり邪馬台国の七万戸という人口は、糸島半島から筑紫平野などの邪馬台国領全部を含んだ人口ではなかったのか?ということですね。
勘違いしてはいけないのは、魏志倭人伝に書かれた人口は「国」の人口であって、町や村の人口ではないということですね。なんとなく町村単位で考えてしまいますけれど。
まああくまで思いつきなので、これから細部を詰めていかねばなりませんが。
五尺刀についてありがとうございます。まあ五尺でこの時期の刀だから、即、魏から下賜された物とは言えませんが、その可能性が一番高い物とは言えるでしょうね。
オイラのことを言ってるんでしょうね。そのままお返ししたいです。w
ついに人口論を語りはじめましたね。これこそ「九州説自滅への道」なんですが…。オイラが九州説を否定する理由の1つがこの人口論であることは、昔の記事を読んでもらえばはっきりします。
現在の歴史人口学の成果では、「魏志」に語られている倭国の戸数に当時の1戸あたりの平均人数10人をかけた数値=人口が九州では多すぎ、西日本全体だとちょうどよいことを示しているのです。
現在の歴史学・考古学が、九州説を採らないのは、このような補助的学問の成果も九州説を否定しているからなのです。
なんか、どんどんオモシロくなっていく。(爆)
まあ私の問題提起への回答があまりされていない(特に一番肝心な点が)ご回答ですが、そもそもここはかるばどすさんの個人サイトなので、あまりこういう議論が続くと、ちょっとまずいのではないかとも思うので下火にするのは良いことかもしれません。
金印を授かった時期が必ずしも最も栄えていた時期であるとは限らないということでしょう。
中国まで使者を送り、もっとも位の高い金印を授かった以上、それだけ大きな力を持った国と判断されていたと思いますが。
平原方形墓は、40面の鏡が出土し、鏡保有数では列島最多です。しかし、方形周溝が14×18mでは、「径百余歩」と伝えられる卑弥呼の墓と比べると、かなり小さいと思います。
一里=三百歩という公式があります。短里で計算すると一歩=24センチぐらいであり、百歩=24メートルということになります。周りの施設(柱の跡などがあります)を含めて24メートルはあり得ると思います。
それと、これは何故かあまり聞かないのですが、古代の天皇(おおきみ)は、なんであんなに大きな墓を作ったのでしょうね。世界的に見てもあそこまで大きな規模の墓が、継続的に作られ続けたというのはあまり例がないように思います。まあ技術的に言えば、天然石に近い石材で墓室を作ってその上に盛り土しただけの簡単な物ですが、その量はすごいし、投入された労働力も相当な物です。
福岡には太宰府を防衛するために作られたと言われる水城という(全長1.2km、64万トンもの土を使ったと言われる。ちなみに南などにも同様な土塁があったらしい)巨大な盛り土の壁がありますが、仁徳天皇陵などこれに匹敵するマンパワーが必要だったと思われます。
墓と言えばエジプトのピラミッドは墓ではないというのが現代の通説ですし、王家の谷の墓は、大きさで言えばそれこそ平原遺跡とさほどに違いはないですし。
日本が影響を受けたであろう半島ですが、私は以前韓国に行って向こうの古墳を見たことがありますが、こぢんまりした物でした。高句麗の好太王か長寿王の墓と言われるものも一辺が31.6m、高さは12.4mあり、1100個の花崗岩を7段に積み上げられたものですが、高句麗最盛期の王の墓さえこの程度です。この墓と比べても遙かに大きいですね。
秦の始皇帝陵等、中国の皇帝陵はさすがに巨大ですが、中国のものを基準にするわけにはいかないでしょう。
こう比較していくと、天皇陵の異常な大きさが見えてきます。日本人は天皇陵が普通と思い込んでいて、これを基準に大きい小さいと言いますが、むしろ平原遺跡の方が墓としては普通に思えます。
このような巨大な墓を作った理由を推測すると、ひとつにはもちろん一般大衆に対して大君の権威を見せつけるため。もうひとつは、いざというときの動員力を見せるためでは無いのでしょうか。いわば動員力のデモンストレーション、つまり兵力の誇示です。逆に言えば、デモンストレーションを常時やらなければいけないほど、戦の少ない平和な国だったように思えます。実際、近畿地方に大規模な戦争があったような遺跡はなかったと思います。
九州に大きな墓が少ないのは、もちろん半島にそんな大きな墓が無かったこともあるでしょうが、半島の領土を保持しないといけない必要から、常時、半島の他国に対して緊張状態にあったからではないでしょうか。後の好太王碑文なんかを見ても、倭はしょっちゅう半島で武力衝突を起こしてますし。マンパワーがそちらに向けられ墓のようなものにそこまで力を注ぐ余裕がなかったように思えます。
逆に言えば、もし半島の領土の責任が近畿にあったとしたら、あそこまで巨大な古墳は作られなかったような気がします。
それに、つくられた時期が3世紀前半なので、卑弥呼の死(247〜8年)と比べると、早すぎるのではないでしょうか?
大きな権力を持った王の墓は生前に作られる物ではないでしょうか?天皇陵に比べれば小さいと言っても、一週間やそこらで作れる物でもないでしょうから。
だいたい、「魏志東夷伝倭人条」のなかでも、伊都国と邪馬台国は区別されていませんか。
そうですが「女王国の支配を受けてきた」と記載されています。そもそも伊都国は記述によればかなり重要な国なのに千戸しかない非常に小さな国(まつろ国でさえ四千戸)であり、事実上邪馬台国の一部であった可能性もあります(フランスとモナコのようなもの?)し、糸島半島の南半分は邪馬台国領であった可能性もあります。千戸なら北半分だけでも広すぎるぐらいです。
>たぶんその刀は平原方形墓から出土したはずですよ。ただし、魏の1尺は 24.12cmなので、五尺刀は120cmくらいじゃないでしょうか。平原方形墓の刀は75cmなので、ちょっと小さいようです。現在見つかっている3・4世紀の刀で1mくらいのものは、伯耆・宮内刀が94cm、丹波西紀町内場方形墓の100cmだったと思います。
なるほど、ご存じないようですね。
平原遺跡から出土したのは、80.6センチの小振りの刀です。おそらく女性が使うのはこのくらいが限界というところから、この埋葬されていた「伊都国女王」が日常的に使っていた物と思われます。
全長115センチ(だったと思います)ある同じ様式の刀が、近くの遺跡から発掘されているのです。これは伊都国歴史博物館の鏡などを陳列している部屋に一緒に陳列されているので、見ればすぐに判ります。こんな大きな刀、鍛えられた男でも、振り回すのは骨だと思いましたね。実際に見て、また真剣を振り回したことがある人間としては。
あるいは、短い刀は2本の内の一本を短く切ったのかも知れませんが。大刀は、家臣なり兄弟なりに下賜したのではないでしょうか。
纏向遺跡については、規模で言うなら福岡市の奴国遺跡からは全長2kmに及ぶメインストリートが発掘されており、そこまで大きいという感じはないです。
疑問なのは、都市と言うよりも祭礼施設のように思えることですね。箸墓古墳を始め、大古墳がいくつもそのなかにあるというのも都市としては異様に感じます。まあ今後の発掘の進展に従って新しいことも判ってくるでしょうけれど。
そこは誤解ですね。学会でも「邪馬台国連合」という言葉で、邪馬台国と同盟関係にある伊都国や奴国が卑弥呼を「共立」したと考えています。ただ、その範囲が、九州だけではなく、吉備や出雲を含んだ西日本に及んでおり、代表が大和だった、と考えているわけです。
なるほど、つまり中世のヨーロッパにおいて、ローマ教皇を頂点として、神聖ローマ帝国皇帝がいて一応の統一されたタテマエはありますが、実際の政治は各国の王等によって行われていたのと同じような物と考えて良いのでしょうか?大和はローマでしょうか。
ただ、そうすると、魏志倭人伝において、「一大率の官がおかれて国々を監視し、国々はそれを畏れている。−中略−ちょうど中国の刺史のような権威を持っている」という記述と合わないように思いますが。また、以前は各国の王と思われる人たちが、「長官」になっていたこととも合わないように思います。
実際、そうなっているのは「共立」と言っても、かなり力を背景とした半強制的なものであったように感じられます。
それだけ「邪馬台国」は倭国内で他国より抜きんでた力を持っていたのではないでしょうか。例えて言えば戦国時代末期の織田家みたいなもの?
実際、「倭国大乱」が均衡した戦力の国同士の話し合いだけで治まったとは考えにくいように思えるのですが。後の戦国時代などの例を考えても。
もうひとつ、半島南部までもそういうゆるい連合で、成り立てたのでしょうか?この頃、半島内部は戦乱の時代です。なにせ、帯方郡太守が戦死するような時代なのですから。そういう半島で倭国領を守るのは大変だったと思うのですが、なにか、纏向遺跡にはそういう緊張感が感じられないのですね。倭国の首都だったと考えるには。
私としては、九州は半島の方に意識が向いていたため、その間に、本州の方にそういうゆるい連合形式の国家が誕生したというのならば判るのですが。もちろんその場合は、それは邪馬台国ではないですが。
弁辰の中に鉄鉱石の産地があり、そこから韓、倭、わいは鉄をとっていたという記述が東夷伝にあり、鉄の供給という意味でも半島は重要だったと考えられます。
むしろ、本州は、半島との間に倭国(九州、半島南部)があったので、半島とのトラブルはすべて倭国が引き受けたために、のびのびと発達できたというのが真相ではないかと思えるのですが。だからああいう大古墳が作れたと。
倭国は、「一回り五千里の孤立した島嶼」と、倭人伝にははっきり書いてありますし。これはやはり九州でしょう。どう考えても。
それにしても、そもそも何故「邪馬台国論争」などが始まったのでしょうか?(後略)
虚心に「魏志倭人伝」を読めば、九州以外にはあり得ません。何しろ、総距離が1万二千里と書いてあり、どう計算しても九州までであって近畿には行き着かないのですから。他の要素もことごとく九州であることを示しています。疑問の余地はありません。本来なら「論争」など起きようもなかったのです。なのに何故近畿説などが生まれたのでしょうか。
その理由を考えますに、江戸時代の鎖国下でプチ中華思想が蔓延した島国ニッポンの「学者たち」の、「三世紀頃の日本は、近畿地方におわす天皇陛下がしろしめしていたのは明白であり、それ以外の考えなどあり得ない」という皇国史観によってたつ判断によって、魏志倭人伝は思いっきり曲解されたのではないでしょうか。
それに比べれば、本居宣長の「九州の蛮族の女酋が勝手に日本の代表を名乗ったもの」という解釈の方が、言い方には思いっきり問題がありますが、真実に近かったと言えます。好意的に見れば、こういう言い方は皇国史観にどっぷり浸かっている他の学者の手前、やむを得なかったととれないこともないでしょう。真相は知りませんが。
しかし江戸時代や、戦前の「学者」がそういう考えなのは仕方がないと言えますが、現代にいたるも江戸時代と大差ない考えを振りかざす人が少なくないのは何故なのでしょう?先生の教え(学説)を大事に守っていくのが弟子の使命であるという日本の学会に見られる因習が、江戸時代からえんえんと続いているのかもしれません。
ウィキペディアの「魏志倭人伝」の項目には帯方郡から邪馬台国までの道筋が1から9まで細かく解説してありますが、郡から女王国まで万二千里という記述について書かれていないのですね。本来なら「1」で解説するべき重要事項と思うのですが。
しかし全く書かないのはまずいと思うのか、別の項目についでのように書いてあります。
こういう姑息な「総距離記述隠し」は、様々な「邪馬台国解説本」で見て取れます。私もこういうやり方に引っかかって「陳寿の曖昧な記述のために邪馬台国の位置は判らない」などと思っていたわけですね。陳寿にすみませんと思いますね。
しかし、本当に何故いまだにこういうことが続いているのでしょうか?単に学者の因習のためなのでしょうか?そうなのかもしれませんが、「学者」によって作られた日本史の常識を疑ってみるべきかもしれません。
そのひとつが、いわゆる「九州王朝説」でしょう。私としては、この説は半信半疑と言うところです。しかし中国の正史である「旧唐書」に倭国伝と日本伝が別々になっていて、このふたつは別の国と認識されているという記述を第一の論拠としているそうです。
ならば、少なくとも仮説としてはありうると思えますのに、日本の学会は全否定、黙殺の構えです。それも唱えた学者がちょっと間違えたことにつけ込んで全否定したらしいですね。それは学者として正しい態度とはとうてい思えません。仮説として認めた上で、是非を検討するべきでしょう。
というか、中国の史書がそうなっているのに、それまでその検討すらされていなかったというのは、学者としてあまりにも怠慢ではないでしょうか。よくあるあやしげな本を元にした説ではないのですから。日本の歴史学者はいまだに江戸時代の皇国史観の婢のままなのでしょうか。
正直言って、こういう「学者たち」の「定説」なるものに、非常にうさんくさいものを感じないわけにはいきませんね。
まあ結局どちらが正しいにせよ、九州が大和朝廷の支配下に組み込まれたのが、3世紀以前か以後か、あるいは7世紀以後かであって、どっちにせよ千年以上前のことです。今に生きる人間にとって、どちらでもたいした違いはありません。なのに彼らは何を恐れているのでしょうかねえ。
これは2つの別のレスだったもので、途中の線がその境目です。
この人(Cさん)とは別に伊都国が邪馬台国だと主張する人物(Sさん)がいるんですが、彼もレスしてきました。
邪馬台国の議論は結局議論倒れになってしまうのを何度も経験したので引き際が大事だと思ってしまいます。
「五尺刀」についてですが記憶が正しければ119センチだったと思います。小数点以下は忘れました。発見されたのは上町向原遺跡です。
ある考古学者が「五尺刀」と同じ長さと指摘されていますが、卑弥呼が貰った「五尺刀」とは断言されていません。残念ですがこの方は畿内説の方です。
なぜか、両氏とも戦意喪失気味ですね。
じつは、Sさんは自分たちに都合の悪い情報を持っていたのですが、それを明らかにすると不利と見たか、隠しています。
もちろん、それを見逃すことはできないので、いちばん最初に触れておきました。
また、何を思ったのか、Cさんは、邪馬台国論争の(それも偏見に満ちた)説明をはじめたので、そこを攻撃しました。彼が邪馬台国論争についてはほとんど無知であることを知らしめるためです。
さらにさらに、彼は、いまやトンデモと見なされている「九州王朝説」まで持ち出し、擁護しはじめたので、それも攻撃目標となりました。
なんでトンデモない方向に自ら進むんでしょうかね?(爆)
上町向原遺跡の五尺刀についてですが、Sさんのサイトに「二世紀だったと思います」と書いてありました。いくら捜しても「3・4世紀の列島出土の刀剣」にないはずです。
また伊都国の地の上町向原遺跡から 「五尺刀」 と同じ長さの太刀が既に出土していることも知っています。出土の状況の記録がなく細かいことまでわかっていないのは残念ですが、上町向原遺跡から出土したこと、数年前科学的調査が行われたことは間違いありません。私の記憶では調査の結果は二世紀だったと思います。
http://itoitokoku.hp.infoseek.co.jp/site.html
Cさんの邪馬台国論争の説明にも問題があります。
Cさんは、本居宣長を高く評価しているようですが、「非なることいとおおし」「非なるをも皆実とならむと思うは、いと愚也」と「魏志」に低い評価を与えたのは宣長その人です(『鉗狂人』天明5[1785]年)。宣長は、卑弥呼は、「熊襲などのたぐい」で、神功皇后の名を語った「筑紫の偽僭の者」であると述べているのはご指摘のとおりです。
「魏志」についての日本側からの言及は「日本書紀」の神功皇后摂政三十九年条への分注が最初だとされています。分注が9世紀はじめのものであろうと推定されているので、平安時代初期から知識層には知られていたようです。そして、神功皇后の条に分注があるように、この時代の人たちは神功皇后と卑弥呼を同一視していたのです。
同じく神功皇后=卑弥呼説を取っていたのは、鎌倉時代中期の学者である卜部兼方や、「神皇正統記」の著者である北畠親房、江戸時代の儒学者・新井白石などです。とくに白石は、「日本書紀」よりも「魏志」を高く評価し、「魏志は実録に候」と学者仲間に書き送った書状もあるくらいです。白石は、死の直前に、突然、九州説を唱えるようになったのですが、なぜそうなったのかは、本人が理由を書き残さなかったため、不明のままです。
彼らは、近畿説を奉じていましたが、べつに「皇国史観」というわけではありません。北畠親房は、「皇国史観」の元祖のように語られていますが、鎌倉時代中期までの執権政治を評価し、逆に後醍醐天皇の新政には批判的だったので、「皇国史観」とは異なった歴史観を持っていたのです。
19世紀以降は、本居宣長の影響を受けた人々が、卑弥呼=熊襲の女酋説(=九州説)を唱えるようになったわけです。江戸時代の国学者・鶴峯戊申は文政3(1820)年に「襲国偽僭考」で、那珂通世も明治11(1878)年に「上古年代考」で、宣長と同じ卑弥呼=熊襲の女酋説を唱えています。
久米邦武や白鳥庫吉は、この卑弥呼=熊襲の女酋説を否定したうえで、福岡県山門郡に邪馬台国の場所を求める、新たな九州説を唱えるようになったのです。これに対して、内藤湖南が卑弥呼を倭姫命とする近畿説を唱え、白鳥との間に論争が起きたのが、いわゆる「邪馬台国論争」のはじまりです。
中国研究者の神田喜一郎は、京都帝国大学に入学したとき、有職故実家の猪熊麻麻呂から、内藤の説は「伊勢神宮に対して大変な不敬問題」を引き起こすと脅され、久米が東京帝国大学を追放されるきっかけとなった「神道は祭天の古俗」を書いたとき、「久米の家に石を投げに行った」話を聞かされた、と書き残しています。
「皇国史観」を奉じる人たちにとっては、九州説だろうが、近畿説だろうが、天皇の「万世一系」性を傷つけるものは看過できなかったのでしょう。とくに、近畿説は、邪馬台国とヤマト政権(大和朝廷)との関係が問題となり、「万世一系」性を危うくすると見なされていたのです。彼らにとっては、卑弥呼=熊襲の女酋とみなす(宣長流の)九州説のほうが、都合がよかったのです。
「九州王朝説」についてですが、この説を唱えた古田武彦さんは、「東日流外三郡誌」(つがるそとさんぐんし)問題で信用を失ったわけです。あれは「ちょっと間違えたこと」ではなくて、偽書作成に関係してしまったのですから、当然の結果じゃないですか。
「東日流外三郡誌」は、昭和初期に建てられた民家の屋根裏から見つかったとされる和田家文書で、幕府の隠密が、ヨーロッパに渡り、ダーウィンなど歴史上の有名人に会うという奇想天外な内容で、江戸時代に書かれたはずなのに、「民活」(民間活力のこと←書かれた時期まで分かってしまう)とか、「光年」とか、ビッグバンにかんする記述があったりして、今ではまったくの偽書と見なされています。
しかし、「邪馬壹國」にかんする記述があったので、古田さんは飛びついてしまったのです。これに対して、邪馬台国九州説を唱える安本美典さん(この人の説もかなりヘンテコだが…)が偽書だと主張して論争になりました。
この文書は印刷物のみで、所有者が原本の公開を拒否しつづけていたので、怪しまれていました。そのさなか、古田さんが、江戸時代の古紙を大量に発注していたことが発覚し、偽書作成の疑いから信用を失ってしまったのです。結局、所有者が亡くなり、原本を捜したのですが、見つからず、偽書であると判断されました。
「九州王朝説」にもどりますが、邪馬台国から倭の五王までを九州に比定する説を最初に唱えたのは、前述の鶴峯戊申で、熊襲の国(=襲国)の元号の痕跡が「麗気記私抄」「海東諸国記」「如是院年代記」などにあるとして、九州年号としてまとめました。しかし、これらが金石文として出土した例はひとつもなく、後世の偽作だと考えられています。
歴史学者や考古学者が「九州王朝説」を否定するのは、「皇国史観」に囚われているからではなく、
1.史料批判など歴史学の基礎手続きを尊重していない。
2.考古学の資料分析の成果に合わない。
3.漢文の読み方が恣意的である。
4.九州王朝の歴史を記録した一次史料が存在しない。
の4点からです。
トンデモはトンデモを呼ぶ。トンデモ連合が九州説には多い、というイメージを与える戦略のように見えますが、すべて事実です。orz
じつは、それだけ、九州説が手詰まり状態にあり(考古学的成果が上がれば上がるほど、3世紀の北九州には邪馬台国跡が見つからない!)、トンデモに走らないと生き残れないというのが現状なのです。
さらに、Cさんは自滅への道を歩むのですが、つぎのものはオイラがレスする以前にCさんが書き込んだものです。
こんばんは、Sさん。
邪馬台国の議論は結局議論倒れになってしまうのを何度も経験したので引き際が大事だと思ってしまいます。
そうですね。何か、ディベートをやっているような感じになってしまいますね。
ちゃんとした人同士なら、議論の途中で問題点が浮き彫りになって、その解決法も思いついて結果としてより正しい考えに至るので、議論は有益なのですが。
人の意見を聞かない人というのは、それ以前も人の忠告を無視するタイプなので、論がまるで磨かれておらず、すぐに欠点が露わになるのですね。しかしそう言うタイプはそれでも自分の誤りを認めませんが。
ところでちょうど良かったです。あれから邪馬台国の人口の問題について少し考えてみました。よろしければ聞いてください。
まず倭国の歴史から再検討してみましょう。
言うまでもなく、西暦57年に「漢委奴國王」の金印が後漢の光武帝より授与されています。この頃の倭国は百余国でした。それから7〜80年その状態が続き、そして戦乱の時代に入り、多年にわたり戦闘が続いた。そして国々は共同して卑弥呼を女王とした。(平和な時代になった)現在使者や通訳の往来のある国が三十国。というのが「魏志倭人伝」の記述ですね。
今まで、卑弥呼は話し合いによって担ぎ出された君主であると思われてきました。しかしそれなら宮殿の周囲を城壁や柵で巡らし、兵器をもったものが護衛するという描写は変な感じがします。誰が卑弥呼の命を狙うのでしょう?
三十国のそれぞれの大きさは書いてありません。(それは韓の国々も同じですが)
あくまで思いついたばかりの仮説ですが、邪馬台国が筑紫平野にあった70余カ国を軍事力で制圧し、大邪馬台国を作り上げ、その軍事力に物を言わせて、残った29カ国を「話し合い」の場に出させ、半強制的に卑弥呼を倭の女王にするという決議を認めさせたのではないでしょうか。
前にも書きましたが、「倭国大乱」と言われるような状況から、軍事的に均衡する国々の話し合いだけで、倭国がまとまったと考えるのは無理があるのではないでしょうか。
こう思ったのは、筑紫平野にある朝倉市のこの時代の遺跡ですが、環濠が後で埋められた形跡があるという話を読んだからですね。平和になって不要になったから埋められたのだろうと書いてありましたが、平和になったからといって、せっかくあるものを埋めたりはしないでしょう。あるとしたら大阪城の例でも判るように、敵対勢力によって埋められたということが考えられます。つまり戦争に敗北したと言うことですね。
もちろんその勝者が邪馬台国かどうかは判りませんが、最終的に倭国を統一したのは邪馬台国であることは確かでしょう。
そして邪馬台国は元々は糸島半島にあり、伊都国と兄弟国であり、ここは地形的に難攻不落であって防衛の面で利が大きく、また大陸からの鉄や先進技術、先進思想をいち早く取り入れられる所であったために、倭国統一を成し遂げられたのではないか。もちろん卑弥呼の傑出した力量あってのことですが。
つまり邪馬台国の七万戸という人口は、糸島半島から筑紫平野などの邪馬台国領全部を含んだ人口ではなかったのか?ということですね。
勘違いしてはいけないのは、魏志倭人伝に書かれた人口は「国」の人口であって、町や村の人口ではないということですね。なんとなく町村単位で考えてしまいますけれど。
まああくまで思いつきなので、これから細部を詰めていかねばなりませんが。
五尺刀についてありがとうございます。まあ五尺でこの時期の刀だから、即、魏から下賜された物とは言えませんが、その可能性が一番高い物とは言えるでしょうね。
ちゃんとした人同士なら、議論の途中で問題点が浮き彫りになって、その解決法も思いついて結果としてより正しい考えに至るので、議論は有益なのですが。
人の意見を聞かない人というのは、それ以前も人の忠告を無視するタイプなので、論がまるで磨かれておらず、すぐに欠点が露わになるのですね。しかしそう言うタイプはそれでも自分の誤りを認めませんが。
オイラのことを言ってるんでしょうね。そのままお返ししたいです。w
ついに人口論を語りはじめましたね。これこそ「九州説自滅への道」なんですが…。オイラが九州説を否定する理由の1つがこの人口論であることは、昔の記事を読んでもらえばはっきりします。
現在の歴史人口学の成果では、「魏志」に語られている倭国の戸数に当時の1戸あたりの平均人数10人をかけた数値=人口が九州では多すぎ、西日本全体だとちょうどよいことを示しているのです。
現在の歴史学・考古学が、九州説を採らないのは、このような補助的学問の成果も九州説を否定しているからなのです。
なんか、どんどんオモシロくなっていく。(爆)
2008.05.25 | 日記らしきもの | トラックバック(0) | コメント(0) |
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