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堂目卓生 著『アダム・スミス ―「道徳感情論」と「国富論の世界」』(中公新書、2008年)

『道徳感情論』において、スミスは、人間本性の中に同感 ―他人の感情を自分の心の中に写しとり、それと同じ感情を自分の中に起こそうとする能力― があることを示し、この能力によって社会の秩序と繁栄が導かれることを示した。……

……人間が社会的存在であるとは、人間が他人の感情や行為に関心をもち、それらに同感しようとする存在だということである。また、それは、人間が他人から関心をもたれること、同感されることを望む存在だということでもある。社会は、このような人間が言葉や表情や行為を用いて互いに同感し合う場である。社会を通じて、個人は、他の人びとが、どのような場合に、何を、どの程度、喜び、悲しみ、あるいは憤るのかを知る。この経験をもとにして、個人は自分が所属する社会で一般的に通用する「公平な観察者」を心の中に形成し、自分の感情や行為を胸中の公平な観察者が是認するものになるよう努力する。このような個人の性質が、正義の法の土台をなし、社会の秩序を形成する。……

……スミスが描いた人間像は、「賢明さ」と「弱さ」の両方をもつ人間であった。「賢明さ」とは胸中の公平な観察者の判断にしたがって行動することであり、「弱さ」とは胸中の公平な観察者の判断よりも自分の利害、あるいは世間の評判を優先させて行動することである。「賢明さ」は社会秩序の基礎をなす。一方、「弱さ」は社会の繁栄を導く原動力になるのであるが、そのためには、それが「賢明さ」によって制御されなければならない。つまり、財産形成の野心や競争は正義感によって制御されなければならない。制御されない野心や競争は社会の秩序を乱し、結果として、社会の繁栄を妨げることになる。……人間が社会的存在であるということは、人間の「賢明さ」の原因であるとともに、「弱さ」の原因でもあるのだ。……

……たしかにスミスは、『国富論』において、個人の利己心にもとづいた経済行動が社会全体の利益をもたらすと論じた。しかしながら、そこで想定される個人は、社会から切り離された孤立的存在ではなく、他人に同感し、他人から同感されることを求める社会的存在としての個人なのである。社会的存在としての個人が、胸中の公平な観察者の是認という制約条件のもとで、自分の経済的利益を最大にするように行動する。これが、スミスが仮定する個人の経済行動なのである。(269~272ページ)

この本を読んで、この歌を思い出した。

ひとは旅路の途中で幾度
訪れる岐路に気付けるだろう
そこでどれほど心の声が
導くものを選べるだろう


浜崎あゆみ“Will”

2009.04.19 | | トラックバック(0) | コメント(0) |












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