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今夜の「功名が辻」は墨俣一夜城の話になりそうだ。墨俣一夜城とは、桶狭間の戦いで今川義元を破った織田信長が、美濃の斎藤氏攻めのため、木下藤吉郎(豊臣秀吉)に1566(永禄9)年に築かせた城である。

この話、秀吉の出世譚としてたいへん有名なので、事実だと思っている人が多い。しかし、実際は、江戸時代後期の作家・竹内確斎(1768~1826)が『絵本太閤記』に、秀吉が、狭間(さま=銃眼)を描いた紙を塀に貼るという奇策を用い、一夜で城を築いたように見せかけた、と書いたことによる完全なフィクションである。

しかし、今日でも「短期間で築いたから一夜城と呼ばれた」という根拠のない解釈が横行しており、事実だと思っている人も多い。
現在、墨俣町の北東端の長良川に臨む台地の上が、一夜城址といわれており、1991年に天守閣に似せた「墨俣一夜城歴史資料館」が建てられている。

国土地理院 2万5000分の1地形図

東北端に「一夜城址」とある。

ここに城があったのは事実で、1778(安永7)年以降に描かれたとみられる「墨俣宿絵図」にも「城あと」の記述がある。


1850(嘉永3)年に描かれたとみられる「墨俣輪中絵図」にも輪中堤防の外側に城跡らしき“でっぱり”が描かれている。

これらから、墨俣城址は、輪中堤防の外側にある舌状台地で、このような土地に城を築くのは一般的であったと考えられる。


墨俣に城があったことはまちがいではないが、問題は、これが秀吉によって築かれた城なのかどうかである。

太田牛一の『信長公記』によると、1561(永禄4)年に信長が美濃を攻めた際、「御敵、洲の俣より、長井甲斐守・日比野下野守大将として森辺口へ人数を出し候」とあり、墨俣に斎藤側の拠点があったことがわかる。この戦いで長井・日比野を討ち取った信長軍は、墨俣を占領して補強工事をし、井口(斎藤氏の本拠地・稲葉山城)から出てきた斎藤軍と交戦した後、墨俣から撤収している。

つまり、秀吉が築く前から、墨俣には城があったのである。

ところで、秀吉による墨俣一夜城築城を記した史料なのだが、じつは存在している。しかし、それは、前にも書いたが、偽書の可能性がきわめて高い『武功夜話』なのだ。w

しかも、その部分の記述には、「御忍びにて」とか、「ヒソヒソ語にて」とか、「夜陰に乗じ」などというどう考えても明治以降に書かれたとしか思えない記述がみられる。

そして、同史料の「馬柵図」(この呼び名自体がすでにあやしい)には、“井”の字に組んだ柵の真ん中を「テツポウハザマ」と記述がある。「鉄砲狭間(てっぽうざま=城壁の銃眼)」のつもりなのだろうが、たんなる柵の間をそう呼ぶだろうか。また、鉄砲は、「テツポウ」ではなく、「テツハウ」と書くのがふつうである。

さらに、軍隊の移動を連続した矢印(→ → →)で描くなど、どう見てもあやしい。

さて、『武功夜話』には、「墨俣一夜城絵図」があるのだが、これが上記の城址とは似ても似つかぬものであり、近くに川があるのに、四方に堀をめぐらすなど、どう考えても合理的なつくりではない。

「墨俣一夜城絵図」

また、東北の隅に搦手口をもうけるなど、信じられない縄張になっている。東北は「艮(うしとら)=鬼門」であり、ただでさえも忌み嫌われている。さらに、隅に入口をつくると、三方から敵に攻められるので、軍事的にも危険である。

というわけで、偽書『武功夜話』にぴったりの絵図なんだが、それでも墨俣一夜城を信じますか?w

ここでもちいた図は、藤本正行、鈴木眞也・著『偽書『武功夜話』の研究』(洋泉社、2002年)からの引用である。

2006.01.22 | | トラックバック(0) | コメント(0) |












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