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菅野覚明 著『神道の逆襲』(講談社現代新書、2001年)の第4章「正直の頭に神やどる」に神を受け入れ、神に愛される人とはどういう者なのか、ということが著わされている。なかなかオモシロイので、その中心にあたる「神に愛される者」と「無分別と正直」を引用しておく。

宮崎駿監督の「崖の上のポニョ」って、興行的には成功なんだけど、映画評論家からはけっこうキビシイ評価を受けている。たとえば…

ライムスター宇多丸の「ザ・シネマハスラー」
町山智浩の「ザ・邦画ハスラー」

この本はそのポニョを評価する上で重要な概念を提供している。ポニョの世界は、宇多丸&町山の「分別」に対する「無分別」の世界。しかし、神は「無分別」な「正直」さを愛するのだ。w
神に愛される者

  日常世界の中で普通に重んぜられていることがらは、「神に愛せられる」こととはさしあたり無関係である。「神に愛せられる」には、もっと別の意外な何かが必要なのだ。その何かとは、たとえば一本の藁を後生大事にかかえていることとか、私を拾ってくれと言う犬を言われるがままに育てるといった、一見「どうだってもよかりそう」なことなのである。そのどうでもよさそうなことを、大切に行なうありようを柳田は「馬鹿正直」と呼んでいる。いわゆる「正直の頭に神やどる」という諺の示すところである。柳田はこのようなありようを、神の禁忌を守り、忠実に祭祀を執行する心意と結びつけて考えようとしているが、しかし「馬鹿正直」ということが、私たち人間の普遍的な心意の中でどのような位置にあり、どういう意味を持つのかといったことへの探究には踏み込んでいない。

  よく知られたいくつかの昔話を例にとって考えてみよう。たとえば、有名な『花咲爺』の話にはさまざまな語りの系統があるが、その中に、白い子犬が川を流れてきて自分を子にしてくれと頼むという類型がある。川を流れてくるものが、不思議なるもの、神の影を負うものであるとするのは、日本昔話のお約束の一つであり、その背景には、山に異界を投影し、川を異界と日常世界をつなぐものとみる民俗世界の心意がひそんでいることは大方の指摘する通りである。この白い子犬も、桃太郎や一寸法師と同様、川を流れてくる奇異なる何ものかの一つの形である。「磐根、木株、草葉も、なほよく言語ふ」(『日本書紀』第九段一書第六)ことが、神が現に立ちあらわれ、威力を振るっているさまを示す表現であるように、子犬が言葉を話すのも神のあらわれを意味している。子犬に言葉をかけられたとき、爺さんはまさに、反転した風景としてあらわれる神と出会っているのである。

  子犬が口をきいたとき、明らかに景色が反転し不思議が立ちあらわれているのだが、爺さんがあまりにも自然に子犬を拾っていくので、私たちはその反転をほとんど意識することがない。心のやさしいお爺さんが、かわいそうな子犬を拾う、よくあるお話として何気なく通過してしまうのだ。しかし、立ち止まって考えてみれば、爺さんのしていることはある意味で相当に危険な行為である。少なくともこの子犬は、ただの犬ではない。それは、この犬に対して別様のかかわり方をした隣りの爺さんが散々な目にあうことからも、容易に予想がつくことである。シロは、一つまちがえれば、とんでもない災いをもたらす畏るべき何ものかなのである。お爺さんが、シロに福を授けられたのは、まかりまちがえば破滅や死を招きかねない危ない綱渡りに、奇跡的に成功した結果だともいえるのである。

  犬の言う通りにして、拾って育てたことが神に愛されるための出発点であったのは間違いない。拾ってくれろというシロの要求は、畏るべき神の祭祀の要求と本質的に同じことなのである。異常なる富を得るには、ともかくもあらわれた神を受けいれなければならないのは確かであろう。では、神を素直にうまく受けいれることができたのは、お爺さんが「やさしかった」ためなのであろうか。

  もちろん、そのように見ることも可能であろう。ただし、その場合でも、シロを育てるお爺さんのやさしさは、私たちが捨て犬を拾ってくるときのやさしさとはどこか異なったところがある。その違いは、シロの背負う畏るべき何ものかにかかわっている。お爺さんは、普通に考えれば途方もなく怪しく危なげなものに対して、まるで日常茶飯であるかのようにやさしさを示している。もしこれをやさしさと呼ぶなら、それは私たちが普通に考える常識を前提としたやさしさをはるかに超えている。たとえば、夜中にトントンと戸を叩いていきなり嫁にしてくれろと言う女(普通に考えれば、この女は十分に不気味な存在である)を、当たり前のように嫁にしてしまう若者のやさしさが、私たちの日常世界のやさしさをどこか逸脱してしまっているように。

  同じようなことは、異類譚とよばれる昔話群に、一般に感じられることである。たとえば、亀を助けた浦島太郎も、童話絵本の中では、いかにもやさしい若者であるように描かれている。しかし、浦島の目には、子どもたちがよってたかっていじめていると見えた亀も、おそらく村の子どもたちの目から見れば、ただの可愛らしい生き物ではなかったに違いない。それは苔の生えたガメラのような怪物であったとはいわないまでも(しかし、背に乗れるくらい大きかったのは確かであろう)、どこか不気味な、日常世界をはみ出す何かを背負ったものとして、子どもたちの目に映っていたのではないだろうか。浦島の亀は、私たちの見なれたただの亀が反転した異類であり、子どもたちはそのことに怯え、抗っていたのではないか。

  浦島は、この異類としての亀を助けることによって龍宮城の快楽を体験することができた。そして、浦島が助けの手を差しのべることができたのは、彼が異類の立ちあらわれている反転した景色を意識することなく、あるいは意に介することなく振舞いえたからであると考えることができる。亀に誘われたときも、浦島はその背に乗ることを躊躇しなかった。神に愛される条件は、まずは、景色の反転した中へ、怖いもの知らずにやすやすと踏み込んでいけるかどうかということなのである。


無分別と正直

  あらわれた景色の裏側を当たり前のこととして受けとめたとき、浦島や花咲爺さんは、みずからも景色とともに反転した存在となっている。そのときすでに、彼らはこちら側の存在ではない。彼らは、いわば神と等しく考え、振舞っているのである。この景色の表と裏の境をやすやすと踏みこえていける人物の像は、見方によってはいろいろに説くことができるであろう。実際、昔話の主人公たちの性格は、向こう見ず、無謀、勇猛、いい加減、お人よし、馬鹿正直、無邪気、楽天家、等々さまざまな味付けがされ、一見するとどこか相通ずるようでもあり、逆にまた全然不統一であるようにもみえる。だが、それらが不統一な外見を呈して見えるのは、その評価があくまでもこちら側の日常世界から、向こう側へはみ出ていく者に対してなされたものだからである。景色の裏側は、こちら側からは見通すことのできない不可思議な何かである。そこへ入っていく者は、こちら側の知恵にとっては最終的に謎である他はない。しかも、あちら側へ行った者が、必ず成功するとは限らない。同じような異類の誘いに乗った者が悲惨な最期を迎える例も、富を得る話と同じくらいだけ存在するのである。

  花咲爺さんや浦島太郎的な人物像の共通点を一言で示す表現は、それゆえ否定的な表現にならざるをえない。すなわちそれは、私たちが住むこちら側の日常世界そのものの否定として言いあらわされる他はない。この日常性を成り立たせている私たちの心意を「分別」と呼ぶならば、神に愛される者たちはまさに「無分別」と呼ばれるのがふさわしいのである。

  井原西鶴(二八四二~九三)の『西鶴諸国ばなし』巻三に、「行末の宝舟」と題された一篇がある。『諸国ばなし』の各篇目次には、「武勇」「無常」「因果」などその話の主題を一言で示す西鶴による評語が付されている。「人間程、物のあぶなき事を、かまはぬものなし」という一文で始まる「行末の宝舟」の評語は、「無分別」である。

  この話は、浦島太郎の話を徹頭徹尾、日常世界の分別を基準にして裁いた、いわば裏・浦島物語というべきものなのだが、そのあらすじは次のようなものである。
信州諏訪の里の「あばれ者」勘内という馬方は、人のとめるのも聞かず融けかかった湖の氷を渡ろうとして行方不明となった。その年の七月七日、湖の沖の方から光り輝く舟があらわれた。舟の玉座には立派な身なりをした勘内が乗っていた。勘内が言うには、自分は今、龍の都にいる。そこでは、財宝も美女も思いのままである。大変楽しい所だからと、勘内は、昔の仲間たちに十日ほど遊びに来るように勧める。仲間だちは我も我もと舟に乗り込んだが、勘内の召し連れている者たちは、どことなく磯臭く、魚や巻貝のような形をしたものもいる。一人の男は、船に乗るまぎわに「分別して」、急用を理由に乗船を断わったが、六人の友人は勘内とともに波間に去っていった。それから十年たったが、何のたよりもなく、六人の残された妻の嘆きははかり知れない。分別して残った者は、今も長生きして書記役をして働いているという。
勘内とその仲間の行った先が、富貴自在の楽天地であったのか、あるいは逆に暗く不気味な冥府であったのかは、こちら側からははかり知ることはできない。確かなのは、分別のある者はその世界へ至ることはないということだけである。そして、こちら側の世界を維持する分別から見れば、勘内たちの振舞いは無分別という他はないのである。

  しかし、百八十度見方を変えて、湖の彼方の龍宮の側から見れば、勘内たちの無分別は、当然のことを当然として行なっているだけのことに過ぎない。こちら側から見れば、騙されたのかもしれないが、呼んでいる向こうからすれば、それは素直に命令に従ったということになる。昔話の主人公たちの評価が揺れるのは、彼らの振舞いが、日常の基準から見た場合と、異界から見た場合とでは意味が異なってくるというこのことに原因している。しかしながら、成功した爺さんが正直であるといわれることと、失敗した(と想像される)勘内の無分別とは、景色の裏側へ踏み込んでいく心意であるという点においては、全く同じことなのである。

  神を受けいれ、神に愛されるには、無分別でなければならない。しかし、受けいれた結果がこの日常世界に福をもたらすか、災厄をもたらすかは、所詮は五分五分の賭けである。無謀と勇猛、お人よしと善人、無分別と正直の境はまさに紙一重なのである。だがもし、その境を意識的によい側へと持ってこられるならば、いいかえれば、リスクを最小限にして神とつきあえるならば、磯臭く怪しげな異類は歓迎すべき客人へと反転するであろう。神のもてなしを成功させる無分別としての正直が、神を意識的に迎える技術である祭祀の世界で特に重視されたのはそのためである。

2010.07.22 | | トラックバック(0) | コメント(0) |












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