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内田樹先生がブログでニートを「不快と忍耐だけが通貨であるような世界での勤勉なる労働者たち」と定義している。

不快という貨幣(内田 樹の研究室)

コメントを読んでみればわかるように、さまざまな反応がみられる。しかし、オイラは、内田さんが、ジャン=ジョゼフ・グーの象徴秩序の生成プロセスを念頭に、この論を展開しているように思える。
(前略)グーは、マルクスが『資本論』の第1巻で展開した「価値形式論」の読解をつうじて、その貨幣の生成プロセスをモデルとして、西洋文明を支配するあらゆる「中心主義」のシステムの存立構造と生成過程を形式化しようとする。それは、経済的には「資本主義」、性的には「男根中心主義」、言語的には「ロゴス中心主義」、政治的には「君主制」、宗教的には「一神教」といった一連の抑圧的なシステムのことである。

  マルクスの価値形式論を象徴秩序全体の解明にモデルとして適用することができるのは、グーによれば、あらゆる社会関係が「交換のシステム」を形成しているからである。そこで、彼はマルクスにならって、商品の交換という場面から出発する。商品というのは当然ながら種々雑多なものからなっているので、それらのあいだの交換が成立するためには、なんらかの「等価性」ないしは「同一性」の存在が要請されなければならない。たとえば、鶏1羽と米2キロが「等価」である、というように。人間の交換活動は、このようにそのつど等価性の基準が変移する「物々交換」から始まったわけだが──鶏1羽は米によって価値を測られることもあれば、その他のもの、たとえば芋や魚によって価値を測られることもある──最終的には、あらゆる商品の等価性を決定する基準として、貨幣(とくに金貨)という〈一般等価物〉が成立することになる。貨幣があれば、どんなに異質の商品でも同一の基準のもとに数量化され、同質的な「価値」をもつので、人々は円滑な交換活動を行なうことができるのである。われわれは、鶏1羽も米2キロも、またコーヒー3杯も本1冊も、すべて同じ「1000円」として、等価値のものと見なすことができるのだ。このような交換のシステムが成立するためには、それまでは一個の商品にすぎなかった金が、それ以外の商品のかたちづくる空間から排除されて、いわば「超越的」な存在としての貨幣に変身することが不可欠の要因である。一般等価物とは、したがって、ほかのすべての商品にたいして神のような超越的「第三項」として君臨することによって、それらの交換関係(相対的な価値)をとりもつ「媒介者」のことにほかならないのである。

  グーの独創性は、このような〈一般等価物〉創出のメカニズムを、貨幣経済だけでなく、象徴秩序[サンボリック]を構成するすべての交換システムとの相同性においてとらえたことにある。フロイトラカンがあきらかにしたように、幼児のときに「多形倒錯的」であったわれわれ主体の性は、「男根」という一般等価物によって中心化されていく(男根中心主義)。また、ジャック・デリダが明らかにしたように、西洋人の言語活動は、ことごとく意味の現前としての「パロール(音声言語)」に従属している(ロゴス中心主義)。だから、象徴秩序の生成プロセスとは、このような〈一般等価物〉という抑圧的な超越性が構築されて、システムが中心化されていくプロセスと別のことではないのである。
    (中略)
  グーによれば、こうした象徴秩序の成立が可能なのは、われわれ人間が「象徴化能力」という特異な能力をもっているからだ、という。象徴化能力とは、現実に存在するありとあらゆる差異・変化のなかから「不変のもの」、「同一のもの」を取り出す能力のことである。いいかえれば、それは多様なるもの、異質なるもの、すなわち「他なるもの」のなかに「同一なるもの」を見いだしたり作り出したりしてしまう、われわれ人間のもついわば病的な傾向のことにほかならない。この象徴化能力によって抑圧・排除されるのは、差異と多様性の担い手である(対象の)マチエール(物質性)と(対象を生産したり交換したりする主体の)であり、この抑圧・排除とひきかえにさまざまな「不変項」──価値、形式、意味、本質、概念など──のシステムが構築されるわけだ。(後略)

立川健二、山田広昭・著『現代言語論』(新曜社、1990年)68~72ページ


もし、内田さんが言うように、この世界が「不快と忍耐だけが通貨であるような世界」であるのなら、その象徴秩序[サンボリック]を突き破るのは、そこに侵入し、それを解体する暴力的な力[セミオティック]なのだ。

彼らがこの不快に耐えられなくなったとき、あるいは、彼らの存在がもたらす不快に耐えている人間が耐えられなくなったとき、暴力的な力はこの不快と忍耐の象徴秩序を突き破り、侵入し、解体することになるであろう(最悪の場合は殺人という形でも)。


まあ、殺人まで行ったら、たいへんでしょうけど、そこまで行かなくても、サンボリックを解体することはできるはずです。

私は泣いたことがない
ほんとの恋をしていない
誰の前でもひとりきりでも
瞳の奥の涙は隠していたから
いつか恋人に会える時
私の世界が変わる時
私泣いたりするんじゃないかと感じてる
きっと泣いたりするんじゃないかと感じてる

「飾りじゃないのよ涙は」(詞:井上陽水)


恋愛はいちばん身近なセミオティックの侵入です。あるいは、人との出会いもそうかもしれません。

ねぇ君は確かに
突然現われ
私の暗闇に光射した
そして少し笑って
大丈夫だって頷いて
私の手を取って歩きだした
君の背に天使の羽を見た

“ANGEL'S SONG”(詞:浜崎あゆみ)


ある歌番組であゆが、「もし歌手になっていなかったら、何をしていたと思いますか?」と聴かれ、「プータローです」と答えていたのを思い出した。これは、謙遜でもなんでもなく、事実ですから…。w

いずれにしても、この世に変わらないシステムなんてものは存在しないのです。ただ、変わらないと思っているだけ…。でも、変えようとしないから、変わらないのです。ただ、それだけなのです。

全てはきっとこの手にある
動かなきゃ動かせないけど
全てはきっとこの手にある
始めなきゃ始まらないから

“Fly high”(詞:浜崎あゆみ)

2006.02.26 | 日記らしきもの | トラックバック(0) | コメント(0) |












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