…ということを思い出した。(爆)

なにしろ、最初が最初だったから…。オイラがあゆをはじめて見たのは、“Trust”のころだから、たぶんこのどちらかのトークを聴いたんだろう。

1998/08/10「Trust」HEY! HEY! HEY!
1998/08/25「Trust」うたばん(映像)
浜崎あゆみ[monochrome]

そのときは「うはっ、またヘンな人が出てきちゃったよ!」って感じだった。「また」がついているのは、もちろん“ともちゃん”(華原朋美)がいたからである。“HEY! HEY! HEY!”で「馬に乗って登場」なんてやったからなぁ。もっとも、ともちゃんの乗馬の腕前は国体で第4位という成績なのだ。
しかし、なんと言っても浜崎あゆみを有名にしたのはコレだろう。

浜崎あゆみのオールナイトニッポン〜浜崎あゆみはバカじゃない?!(1998.12.28)

オイラはこれを残念ながら聴いていない。聴いていないが、その内容はさまざまな媒体をとおして聞こえてきた。とくに、彼女の子供時代の話は、彼女のアヤウサをあらわしているとか、そんな話…。

1999年は、なんだかんだで、宇多田ヒカルの年だった。やっぱ“FIRST LOVE”の700万枚は驚異的だ。ある研究会に行ったら、終わったあとの飲み会ではヒッキーが話題に出た。なんとそこに来ていた院生のほとんどがこのアルバムを持っていた(オイラも持っていたんでなんともいえないが…)。

その間に、あゆは「女子高生のカリスマ」と言われるようになるわけだが、この辺は安室奈美恵の二番煎じくらいにしか思っていなかった。いまのくぅちゃん(倖田來未)がそうであるように、流行は女性、とくに10〜20代の女性からはじまるということは、現象としてはオモシロイが、そこでもてはやされている人物についてまで関心が至らなかったのである。まして、この現象にあゆ本人がいちばん居心地の悪さを感じていたことも…。

浜崎あゆみを知る二度目のチャンスは、2000年の6月1日、東武伊勢崎線に乗って、太田と佐野に行ったときだった。太田と佐野の間だったか、佐野からの帰りだったか、憶えていないが(おそらく前者だと思う)、“vogue”を聴いている兄ちゃんがいた。ふつうヘッドフォン・ステレオの音は漏れ聴こえるものなんだが、この兄ちゃんのはそんなあまいものじゃなかった。ばっちり聴こえるのである。どうも歌っているのは、あの“あゆ”らしいのだが、問題はその歌詞である。なんともいえないその歌詞は、そう、「無常」を歌っているのだ。これはなかなか衝撃的な体験だった。なにしろ、あの“あゆ”が作詞していることぐらいは知っていたから…。「ホントにバカじゃなかったんだ」と思ったもんだった。しかし、オイラの関心は、同じ日に目撃した「渡良瀬橋」の方に行ってしまい。結局、あゆの歌を聴くことはなかった。じつは、この直前に日テレの「スーパーテレビ」も見ていた。だから、「いいコじゃないか」くらいは思ったかもしれない。でも、それだけだった。

この夏あたりから、登山をはじめ、翌年には自転車に乗りはじめ、結局、2003年にケガをするまで、音楽自体をあまり聴かなくなってしまった。

2002年の秋からフジテレビで“Ayu ready?”がはじまったんだけど、これは都合で1回とばしくらいしか見ていない。ただ、思ったのは、「けっこうゲストに気をつかうコだな」ということくらいだった。

2003年になると、オイラがケガをして、ほとんど自転車に乗れなくなってしまった。だから、“Ayu ready?”のRAINBOWハウスを建てたりしてたのを見ていた。このときも、オイラの関心は从^.ゝ^从姫のほうに行っちゃったんで、あゆの歌を聴くことはなかった(番組のなかで歌ってたんだけど、マジメに聴いてなかった)。

2004年になって、“Ayu ready?”が終わり、日テレの「スーパーテレビ」が放送された。オイラはこの番組の最後のところ、おばあちゃんの死の話のところだけ見た。その夏にavexの「お家騒動」が起き、彼女がそれを鎮めてしまったのには、さすがに驚いた。でも、やっぱり、驚いただけだった。

この年に从^.ゝ^从姫のファンサイトで知り合った女の子が、たまたまオイラの書いたブログ記事にあゆについてのコメントを書いた。それがきっかけだった。「そーいえば、浜崎あゆみの歌をちゃんと聴いてなかったな」と思い、さっそく中古CD店であゆのアルバムを探した。ただし、たくさんCDが出ているので、何を買ったらいいかわからず、ぜんぜんちがうCD(小田和正の)を買って帰ってきた。

で、ファンサイトなんかで調べて、つぎに行ったときに“LOVEppears”と“Duty”を買った。ホントは“A Song for XX”から買おうと思ったんだけど、なかったんで、この2つを買った。ついでにいうと、あの“vogue”が“Duty”に収録されていた、というのもこの2つを買うことにした理由のひとつだった。

ここから先は旧ブログの「浜崎あゆみ」を読めば、オイラがはまっていく姿が描かれているんだが…。w

で、なぜオイラがあゆを避けてきたかなんだけど、原因はたぶんコレだと思う。


いちばん右の「“悲しみ”の分離」が2003年の末までのオイラの心の慣習だったからだと思う。

楽しいことなら 何でもやりたい
笑える場所なら どこへでも行く
悲しい人とは 会いたくもない
涙の言葉で ぬれたくはない
青空 あの日の青空 ひとりきり

井上陽水「青空ひとりきり」


だから、そーゆー心の慣習から脱するまで、オイラはあゆを避けてきたんじゃないかと思っている。

2006.03.14 | Ayuさん(浜崎あゆみ) | トラックバック(0) | コメント(2) |

あれ、ここに陽水さんの
「青空ひとりきり」がきたので、
ちょい驚きました。
この歌、悲しみを極度に恐れてるので、
過去に非常な悲しみに遭遇した経験があるのだと、解釈してました。
それと、青空と孤独の対比が印象的でした。
(一時、陽水さんよく聴いてました。)
…また聴きたくなっちゃったな。

2006.03.14 22:52 URL | cha-cha #- [ 編集 ]

この歌は1975年11月25日に発売されたフォーライフ移籍後の初シングルです。

社会学者の栗原彬さんは、「やさしさ」という言葉をキーワードに、1960〜80年代の若者の心情の変化をつぎのように論じています(『やさしさの存在証明―若者と制度のインターフェイス』新曜社、1989年)。
-----引用はじめ-----
  1960年代末にやさしいということばが若者たちに身にしみるようにして無垢の関係を表すものとして受けとめられたとき、そこには、顕在的にせよ潜在的にせよ、権力的なもの、広義の国家との対峙があった。権力との戦いにおいてこそ、他のいのちへ向かって動いていく極限的な感受性としてのやさしさが生まれた。だがやさしさは、無力の自覚とみずからが権力化することへの忌避とから、小状況、私的状況での相互交信の回復へ向かい、次いで国家との日常的相克のなかで共用環境の創建へ打ってでる。

  1970年代半ばには、産業化、軍事化、管理化による包囲網のなかで、やさしさは自閉を強いられ、一方に受身の状況適応的なやさしさ、他方に大事なものを抱えて権力の手をすり抜けていくやさしさに変った。

  そして今日、軍事化と管理化の急速な進行の下で、若者が公的な世界に背を向けて私的な小宇宙を志向するとき、やさしさは「自分の気分のよさ」と「ハピネス」を求める自己中心性の方に移動を起こして、ほとんど自他を傷つけない、ことの代用語になってしまっている。「気くばり」が流行語となり、そのテクニックを書いた本がベストセラーになる現象は、この間の事情をよく物語る。しかも支配的な体制が、秩序の維持と強化のために風俗や儀礼としての擬似やさしさを氾濫させるとき、本来やさしさの原質をつくるべき、弱者、無力なものへの視点はすっぽり抜け落ちる。
-----引用おわり-----
陽水さんは、若者の心情の変化を「傘がない」(1972年)や「青空、ひとりきり」のなかで歌ったのではないかと思うのです。

陽水さんの歌は、「娘がねじれる時」(1979年)や「ワカンナイ」(1982年)のように、社会性(その時代の臭い)をおびた歌が意外と多いのです。

「娘がねじれる時」は、校内暴力が問題になり、「3年B組 金八先生」が放送され、尾崎豊が中坊だったころの歌です。

「ワカンナイ」は、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」のパロディで、賢治(の時代)をワカンナイとおちょくっているようで、じつは賢治をワカンナイといっている現代人をおちょくっているようにも思えます。

あと、陽水さんは、日本にはめずらしいシニフィアンス(「意味生成」の意味)で、シニフィアン中心で(音が意味よりも優先される)歌詞をつくります。“Make-up Shadow”(1993年)や“TEENAGER”(1998年)なんかはまさにコレです。

中高年のあゆファンのなかには陽水さんをひどく嫌う人がいるのですが(意味のない歌をうたう陽水はキライ!→あゆも意味のない歌=“evolution”[2001年]や“Bold & Delicious”[2005年]をうたうな!)、オイラはあゆが誰にいちばん似ているかというと、じつは陽水さんなのです。

2006.03.16 02:31 URL | 王子のきつね #NVCdQGYY [ 編集 ]












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