FC2ブログ
「壬生義士伝」は、以前、渡辺謙主演のドラマを見たことがあったが、今回は中井貴一主演の映画を見た。


明治の終わり、感冒にかかったと思われる孫を連れて、老人(佐藤浩市)が町医者に駆け込んでくる。町医者(村田雄浩)は新天地である満州に医院を移すため、引っ越しの最中であった。医者の夫人が孫を診察し、老人は待合室で一息つく。ふと老人の目に、古びた一枚の写真が映った。その写真に写った武士は、老人のよく知る人物であった。老人は町医者に問わず語り、昔を思い出して行く。老人は新撰組隊士・斎藤一であり、写真の武士は吉村貫一郎(中井貴一)であった。

吉村貫一郎は盛岡藩の下級藩士であった。大野次郎右衛門(三宅裕司)は、上士の庶子であったため不遇であり、貫一郎の親友となったが、嫡子の死去で跡取りとして迎えられた。その次郎右衛門は、百姓娘のしづ(夏川結衣)を妻にしようとしたが、親に妾とするように申しつけられる。しかし、しづは貫一郎に惹かれており、貫一郎も同じだった。妾に迎えられる途中、しづは逃げだし、貫一郎と結ばれる。

時は流れ、次郎右衛門は上士となったが、貫一郎は小禄のため家族が養えなかった。そこで、貫一郎は、脱藩し、新選組の隊士となった。次郎右衛門は、貫一郎の脱藩に怒りながら、道中手形を与えた。

貫一郎は、家族への仕送りのため、新選組でも金のため何でもやり、「守銭奴」「出稼ぎ浪人」などと呼ばれ軽蔑されていた。斎藤一は、貫一郎を憎み、斬り殺そうとするが、貫一郎は剣の使い手であったため、断念する。斎藤は、弟を近藤勇の養子とした谷三十郎が気に食わず、斬り殺すが、そのことを貫一郎に見抜かれ、口止め料を求められる。

斎藤には、ぬい(中谷美紀)という愛人がおり、貫一郎と同郷であった。伊東甲子太郎らが新撰組を脱退して御陵衛士(高台寺党)を結成すると、斎藤はスパイとしてこれに加わる。斎藤はぬいを通じて情報を貫一郎に伝えていた。斎藤が坂本龍馬を暗殺して姿を隠すと、ぬいは自害してしまう。その後、斎藤は新撰組に戻り、貫一郎とともに伊東らを暗殺する。

王政復古となり、鳥羽・伏見の戦いが起こる。戦況は不利となり、多くの藩兵が撤退するなか、貫一郎は、錦の御旗を掲げた薩長軍に向かって走り出し、勇ましく刀を抜き、斬り込んでいった。

斎藤の話はここで終わったが、町医者の話が続く。町医者は、貫一郎の親友・次郎右衛門の息子・千秋であった。

鳥羽・伏見の戦いが決着したとき、大坂の盛岡藩蔵屋敷に満身創痍の侍が紛れ込んできた。貫一郎であった。保護を求める貫一郎に対し、蔵屋敷差配役となっていた次郎右衛門は切腹を命じた。貫一郎は、次郎右衛門から与えられた刀を息子に渡すように書き残し、自らの刀で切腹して自害した。

その後、次郎右衛門は、新政府軍との戦いを強硬に主張して出兵、戦死した。貫一郎の息子・嘉一郎は、妹のみつを千秋(伊藤淳史)に託し、函館戦争に参戦して行方不明となった。ここで、孫の治療が終わり、町医者の夫人が現れる。夫人は、貫一郎の娘・みつ(夏川・二役)であった。
だけどね。その前に見た「BS歴史館」で、龍馬暗殺が見廻組によって行われたことを知っていたので、斎藤一が龍馬を斬ったといっても、作り話感が半端じゃなかった。

暗殺直後、新選組や紀州藩(いろは丸事件で龍馬に恨みをもった)が実行犯だとの噂が流れて、天満屋事件などが起こった。天満屋事件とは、紀州藩が龍馬・中岡慎太郎の暗殺を図った、と思い込んだ海援隊・陸援隊隊士が、紀州藩士の逗留する京都油小路の旅籠・天満屋を襲撃して、新選組と戦った事件である。ちなみに、斎藤もこの事件で戦闘に参加している。

しかし、1870年に見廻組隊士だった今井信郎が龍馬暗殺に立ち会ったことを供述し(のちに龍馬暗殺は自分の仕業と供述が変わった)、見廻組実行犯説が有力となった。1912年になって、元見廻組隊士・渡辺篤が死の床で身内に、坂本龍馬を暗殺したのは自分であると告白して死んだと『大坂朝日新聞』が報道した。渡辺の証言は、今井と異なる部分が多いが、証言どおりに歩くと木戸を通らずに戻ることができるなど、信憑性が高い。今井・渡辺ともに、暗殺を命じたのは見廻組与頭・佐々木只三郎であるとしている。佐々木は、会津藩士・手代木勝任の弟であり、鳥羽・伏見の戦いで戦死している。手代木は、晩年、松平容保と図り、佐々木に暗殺を命じたと証言している。

ぜんぜん関係ないけど、手代木は、会津戦争の際、若年寄となり、秋月悌次郎とともに城を脱出して、米沢藩の仲介で、板垣退助に降服を申し入れた。大河ドラマ「八重の桜」にも出てきそうな人物である。


ここから急に「八重の桜」の世界に入るが、斎藤一(こちらでは降谷建志w)は、会津戦争では城外で戦い、会津降伏後も抵抗を続けた。松平容保の命で降伏後は会津兵とともに越後高田で謹慎、会津藩が青森県下北半島で斗南藩として復興すると、藩士として下北半島に移る。その間、上士の娘と結婚し、この娘が亡くなると、同じく上士の娘と再婚した。再婚のときには、容保・佐川官兵衛(中村獅童)・山川大蔵(のち浩、玉山鉄二)が仲人になっている。二度目の妻との間に3人の子どもをもうけている。その後、警視庁に採用されて警官となり、西南戦争で活躍する(佐川はここで戦死)。退職後も、山川などのツテで、東京高等師範学校(筑波大学)附属教育博物館の守衛長や、女子高等師範学校(お茶の水女子大学)の会計掛を務めた。1915年に胃潰瘍で死去した(72歳)。前半生の殺伐さと後半生の市民的幸福の間のギャップにはホントに驚く。

斎藤は左利きだったという説がある。これは子母澤寛の『新選組物語』で「暗殺された谷三十郎の死体を検分した篠原泰之進が、傷口が左の突きであったことから“左片手一本突き”を得意技とする斎藤が下手人ではないかと疑った」という描写が由来となっているそうだ。「壬生義士伝」では、吉村貫一郎が見抜いたことになっていた(どちらもたぶん創作)。ただし、篠原は、実在の人物で、御陵衛士となり、赤報隊にも参加したが許され、会津戦争や北越戦争で活躍した。この人も84歳で死んでいるので、かなり長生きだ。


ところで、実際の吉村貫一郎は、新撰組隊士ではあるが、同名の盛岡藩士はおらず、嘉村権太郎が本名と推測されている。北辰一刀流の使い手とされるが、実際に斬り合った記録はなく、鳥羽・伏見の戦いで行方不明となった。ちなみに、親友とされる大野次郎右衛門も実在せず、彼の所伝は、子母澤寛『新選組始末記』の創作であり、浅田次郎『壬生義士伝』もこれを下敷きにしている。

2013.04.05 | ├ TVネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |












管理者にだけ表示

トラックバックURL↓
http://kitsunekonkon.blog38.fc2.com/tb.php/4852-1a72608f