人間は、イメージと言語で、現実を認識している。ラカンは、言語で認識されている世界を「象徴界」、イメージで認識されている世界を「想像界」、イメージでも言語でも認識できない不可知の世界を「現実界」に分類した。

この三界は母子関係から生じる。生まれたばかりの子どもは、なにもできない無力な存在なので、母子一体の状態になければ、生きていくことすらできない。しかし、このときの子どもは、つねに満足した状態にある。つまり、母親が、お腹がすいたら、おっぱいを飲ませてくれるし、排便や排尿をしたら、おむつを取り替えてくれる。

ところが、母親の不在などで母子一体の状態がなくなると、子どもは、それらを受けられず、欲求不満となる。このとき、子どもは、自らの欲求不満を解消するために、母親が微笑んでくれたり、おっぱいを差し出してくれるようなイメージを思い浮かべて、欲求不満を解消しようとする。こうして「想像界」が発生する。

しかし、自分の願望をいくら想像しても母親が現実にはいない。そこで、母親の不在を理解して絶望したり、自分から離れていく母親に言語を用いて話しかけるようになる。こうして、「象徴界」へと移行するのだ。

いったん言語を獲得すると、人間は言語によってすべてを認識しようとする。だから、人間は「象徴界」の生き物である、と言える。言語によるコミュニケーションが可能となると、人間は複雑な社会を形成する。しかし、そこは、さまざまな人間がせめぎあう場であるがゆえに、約束・契約・法など掟が必要となる。こうした掟は、言語で書かれている(「不文律」や「黙契」も、言語を持たなければ存在し得ない)。そして、掟を与えるのは象徴的な父である。このため、「象徴界」とは、掟であり、父であり、言語であるといった図式が成り立つ。

ところで、たとえば「日常」「平和」「不幸」といった、誰でも漠然とイメージできるけれども、言語による描写となるとたいへんな労力を要するような対象と世界が存在する。人間は、そうしたものを、イメージで捉えるしかない。このような認識のため「想像界」は存在する。

さらに、言語でもイメージでも認識できない対象と世界が存在する。この「語りえぬもの」「描きえぬもの」が「現実界」なのだ。トラウマは、耐え難い苦痛の記憶であるが、それゆえに「象徴界」や「想像界」から追放され、「現実界」に住み着いている。そして、「象徴界」や「想像界」にときおき入り込み、フラッシュバックとなって人間を苦しめるのだ。

2013.08.29 | 日記らしきもの | トラックバック(0) | コメント(0) |












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