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放送大学の「歴史からみる中国('13)」

歴史からみる中国('13)

で初めて知った。orz

中国史を見るとき、われわれは無意識的に現代の視点から歴史を考えてしまう。たとえば、中国(中華人民共和国)は、漢人(漢民族)が住む地域と、それ以外の人々(モンゴル人やチベット人など)が住む地域から成り立っている。そうすると、昔から漢人が住む地域を中心に歴史が展開してきたんだ、と思い込んでしまう。

ちなみに、今日、漢人がおもに住んでいる地域は、漢(前漢)の武帝が「海内(かいだい)一統」した地域とほぼ重なる。武帝以前の漢は、郡国制を採用していたが、これは、中国を東西に二分割して、西側(黄河・長江上流)が郡県制で、東側(黄河・長江下流)が封建制となっていた。教科書には「長安周辺の中央直轄地には郡県制を、地方には一族・功臣を諸侯として封じる封建制を併用した」って載っているので、東側の方が生産力が高く、一族や功臣の方が力が強かった!ことが伝わりにくい。呉楚七国の乱を契機に、しだいに郡県制を拡大した。ただし、この地域は、華北と華中であり、武帝が華南を併合して「海内一統」が成った。


さて、この「海内一統」史観だが、たとえば、南北朝時代。南北朝時代は、北方民族が建てた北朝と、漢人が建てた南朝が対立する時代で、北朝の隋が南朝の陳を滅ぼして「中国」を統一し、それを唐が引き継いだ、と教えられている。しかし、これは、「海内一統」された地域が「中国」であり、北朝も南朝も隋もそれを統一することを目指していた、という歴史観を無意識に受け入れているのだ。

「拓跋(たくばつ)国家」論はそのような歴史観を相対化する。「拓跋国家」論とは、北朝の北魏、それが分裂した東魏と西魏、それぞれを引き継ぐ北斉と北周、さらに隋と唐、これらの王朝はいずれも鮮卑(せんぴ)の拓跋部出身者によって建てられた国家だった、と考える。彼らは、北方の突厥(とっけつ)を最大の敵と考え、後顧の憂いを取り除くため、南朝の陳を滅ぼし、結果的に南北朝を統一したのだ。彼らにとって、突厥との対決がまず第一で、南北朝の統一(海内一統)はそのための一過程にすぎない、というわけだ。

しかし、この「拓跋国家」論は、現行の「世界史B」の教科書では一社(帝国書院)しか載せていない。


「拓跋国家」論とならんで、新たに知ったのが「沙陀(さた)国家」論だ。こっちは五代十国から宋(北宋)にかけての時代を説明する。

朱温(全忠)が唐を滅ぼして後梁を建国してから、宋(北宋)によって統一されるまでを五代十国時代という。五代とは、後梁、後唐、後晋、後漢、後周の5つの王朝で、華北に建国された。十国とは、華中・華南・華北の一部に建てられた王朝で、五代に対して地方政権と考えられている。後周の軍人たちに擁立された趙匡胤(太祖)が宋(北宋)を建国し、弟の光義(太宗)が「中国」を統一した。ふつう、このように教わる。

しかし、「沙陀国家」論によると、後梁を除く4王朝と宋(北宋)は、突厥の沙陀部出身者が建てた王朝で、彼らの最大の関心は北方の契丹(遼)の脅威だった。「五代」の抗争は、沙陀国家と契丹との間の連携・離反の繰り返しであった。燕雲十六州の割譲もこの文脈で考えた方がよい。また、趙匡胤の擁立も、五代一の名君とされた世宗の死後、幼君を擁したまま、契丹と対決することに不安を覚えた軍人たちによるものだった。

ちなみに、「沙陀国家」論の方は「世界史B」の教科書にはまったく載っていない。ただ、山川出版の「世界史用語集」では、それぞれの王朝の建国者のあとに、なぜか(突厥出身)と書いてあるので、“「沙陀国家」なんだよ! わかってる?”ってアピールしているみたいでオモシロイ。


E.H.カーは「歴史とは現在と過去との対話である」と言ったが、「拓跋国家」論や「沙陀国家」論は、現代のわれわれの価値観(あるいは過去のある価値観)で過去をぶった切るのではなく、過去の歴史をとおしてわれわれの価値観を相対化する例となる。

2014.02.25 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |












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