明日、いよいよ大河ドラマ「真田丸」がはじまる。「花燃ゆ」があまりに不人気だったので、昨年中はまったく番宣がなかったが、本年になったら、番宣番組ばかりだった。w

ブラタモリ×鶴瓶の家族に乾杯 真田丸スペシャル

タモリさん、鶴瓶さん、堺雅人さんが長野県上田市で旅?する番組だった。古地図を見ながら上田市街を歩く興味津々のタモリさんと堺さんに対して、ぜんぜん関心を示さない鶴瓶さん。ところが、ある家に鶴瓶さんが入っていったのを見て、タモリさんと堺さんが「よく人の家に入れるな」と感心していた。「家族に乾杯」って、そーゆー番組だからね。

上田城は、関ヶ原の合戦後、真田氏が松代に移ると破壊されるので、今ある城は真田氏の城ではない。しかし、この番組では、今の上田城で真田氏の痕跡を探すという極めてマニアックな番組だった。石垣の中から真田氏の石垣を見つけるとか、空堀にある排水口から真田氏の水堀を推定するとか、かつての堀跡が野球場や陸上競技場に利用されているとか…。

この間、鶴瓶さんは、真田氏ゆかりの人物を捜すはずが、な・ぜ・か真田さんという人を捜すことになってしまった。「真田○○」って会社は、真田さんが経営していると思い込んで、旧真田町に行く。でも、旧真田町にあるから「真田○○」なのだ。しかし、旧真田町は真田氏の本拠地なので、結果、真田氏館近くのりんご園で堺さんと落ち合うことになった。

上田市街では、川がところどころ暗渠になっている。これは、真田氏時代からこうなっていて、平時には道や家だと思わせ、有事になったら壊してしまう。敵は、道があると思って攻めてくるが、道がなくなって川にドボン!なのだ。これ、このあと説明する「歴史秘話ヒストリア」での真田丸特集に関係あるのだ。


「歴史秘話ヒストリア」では、

徹底解明!これが“真田丸”だ ~地中に残された幻の城~

という真田丸特集があった。

こっちは、地下レーダーを使って、真田丸の場所を特定しようという試みだった。その結果、大阪市天王寺区餌差町の明星中学・高等学校の南側に堀跡が見つかり、その幅が、広島藩主の浅野氏に伝わる「諸国古城之図」(広島市立中央図書館所蔵)の「摂津 真田丸」に書かれている堀の幅とほぼ同じなのだ。

また、占領中に米軍が撮った航空写真から、明星中学・高等学校を中心とする場所が真田丸だと判明した。これは、奈良大学学長の千田嘉博さんがすでに自著で特定している。今回の調査にも千田さんが協力している。真田丸の場所と形状は以下の記事がくわしい。

真田丸と南惣構堀(空堀)跡の場所を地形(カシミール3D)から探る

興味深かったのは、真田丸の周りは、野原などではなく、寺町であったということ。つまり、真田丸の攻防戦は、市街戦だったのだ。寺町の道を数千の兵が攻めてくると、いきなり広い空堀が現われる。ところが、後から後から兵が来るので、簡単には止まれまい。後の兵に押されて、空堀の中に落ちてしまう。そこを真田丸から鉄砲で狙い撃ちにされるので、数千人の犠牲者が出てしまった。これって、「ブラタモリ×鶴瓶の家族に乾杯 真田丸スペシャル」で紹介された上田市街の暗渠みたいじゃん。

これ以外にも、真田氏が使っていた銃身と射程がめっちゃ長い火縄銃のため、徳川方は、真田丸に近づけず、塹壕を掘って接近を試み、土を盛って射撃陣地をつくっていた話。大坂夏の陣で、茶臼山を改造して、第二の真田丸をつくっていた話。…が紹介された。

また、この2つ以外にも、

歩いて感じろ!真田丸のヒミツ
英雄たちの選択 武田信玄 築城で戦いを決せん ~川中島から真田丸への系譜~
もうすぐ真田丸スペシャル ~キャストが旅する!ゆかりの地~

など、番宣が盛りだくさんだった。wwwww

2016.01.09 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(4) |

「ヒストリア」観ました。

問題は、「真田丸」が出てくるのは大阪冬の陣。

上田合戦以降をどのように持たせるかでしょうね。関が原で兄と袂を分かつ戦いになるところで再び表舞台にでますけど。

豊臣政権期の信繁の動向は史料が少なく、詳細はわかっていないそうですから。

2016.01.09 23:36 URL | chitose #BXy/Vbyc [ 編集 ]

「みなさん、元気ですか? 史料にないから、ナンデモできる」←「江」や「花燃ゆ」の悪いところ。w

「平清盛」で、清盛と(新次郎じゃなくて)源義朝が旧知の仲だったってのも、清盛と義朝の(文字どおりの)直接対決wも、困ったもんです。関係性が過剰。w

「史料にないから、ナンデモできる」と「過剰な関係性」だけはやめて欲しい。大河ドラマがウソくさくなるので…。orz

「あさが来た」に、大久保利通や福沢諭吉が出てきて、あさと過剰に関わるのも、ホントはアレなんですけど…。w

オイラも、たまたま駅でビートたけしや乙武君と会ったことはありますが、過剰に関わることはないですから…。(爆)

2016.01.10 00:28 URL | 王子のきつね #NVCdQGYY [ 編集 ]

第1話は真田幸村の父昌幸が武田勝頼の家臣だった時期から物語がスタートしましたね。

器の大きな昌幸の大局を見据えた的確な政治判断と、他の家臣たちが勝頼を見捨てていく過程をシビアに描いていて、のっけから濃密な滑り出しだと思います。

悲劇の勝頼を人格者として描いているのも興味深かったです。

2016.01.10 23:03 URL | chitose #BXy/Vbyc [ 編集 ]

勝頼に、昌幸が岩櫃城、小山田信茂が岩殿城に行くことを進言したのは史実のようですが、岩殿城のある、笹子峠より東の地は「郡内」と呼ばれ、「甲斐にあって甲斐にあらず」で、地理的にも心情的にも武蔵や相模に近い場所なのです。郡内の丹波山村や小菅村も新聞を奥多摩からバスで輸送していました。だから、勝頼が、「甲斐から出られない」を理由に、昌幸との約束を反故にしたのは、とても意外でした。w

信茂の評価も、笹子峠より西では「裏切り者」ですが、「郡内」では(信長に降伏を認められず処刑されたので)自らを犠牲にして信長軍から守ってくれた人物と評価されているようです。


勝頼の評価は最近の歴史研究でも高いです。

祖父の信虎、父の信玄(晴信)時代は、国人領主層の独立性が高く、信虎の追放は国人領主層の意志で行われ、信玄が領土拡張に奔走したのも彼らの欲求を満たさないと反乱を起こされるからだったようです。勝頼は、国人領主層を支配するために、さまざまな施策を行ったと考えられています(笹本正浩『戦国大名の日常生活 ~信虎・信玄・勝頼』講談社選書メチエ)。

新府城の建設も、かつて信長が清洲→小牧→岐阜→安土と根拠地を移すたびに家臣団を再編成したように(千田嘉博『信長の城』岩波新書)、領主層の組織化のためだったと考えられています。

じつは、新府城を焼いた段階で、家臣団が離反してしまい、配下の兵が600人に減っていたのです。新府城は5000人くらいで守るのにちょうど良い設計だったので、戦えずに城を焼いたのです。

勝頼は、長篠の戦いで大敗したことで、無能扱いされますが、信玄も、戦国大名に成り立ての頃、上田原の戦いと戸石城の戦いで村上義清に大敗しているんですけどね。ちなみに、大敗は悪いことばかりではなく、信玄の場合、国人領主層のまとめ役で、父・信虎追放劇の黒幕であった板垣信方が戦死したので、逆に国人層の統制がやりやすくなったのではないでしょうか。勝頼の国人層統制もこの敗戦から始まりました。

ちなみに、戸石城は、山全体がガレ場(細かい石で滑りやすい)なので、難攻不落だったようです。信玄は、これを手に入れるのに、真田幸綱(昌幸の父)に城主を調略させています。じつは、ドラマの昌幸の台詞に真田が守っている城の中に「岩櫃城、沼田城、戸石城」とちゃんと戸石城を含めているので、「出た!砥石城!!」って思ってました。w

2016.01.11 11:03 URL | 王子のきつね #NVCdQGYY [ 編集 ]












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