いきなり武田氏の滅亡から始まったので、意外でした。真田信繁(堺雅人)の幼少時代なしでした。

この話の中で、武田勝頼(平岳大)に、真田昌幸(草刈正雄)が岩櫃城、小山田信茂(温水洋一)が岩殿城に行くことを進言したのは史実のようです。ただ、岩殿城のある笹子峠より東の地は「郡内」と呼ばれ、「甲斐にあって甲斐にあらず」で、地理的にも心情的にも武蔵や相模(つまり関東=北条氏)に近い場所なのです。以前、登山で訪れた「郡内」の丹波山村や小菅村も新聞を奥多摩駅からバスで輸送していました。だから、勝頼が、「甲斐から出られない」を理由に、昌幸との約束を反故にしたのは、とても意外でした。w

信茂の評価も、笹子峠より西では「裏切り者」ですが、「郡内」では(信長に降伏を認められず処刑されたので)自らを犠牲にして信長軍から領民を守ってくれた人物と評価されているようです。

信茂と並んで「裏切り者」の一人に穴山梅雪=信君(榎木孝明)がいます。彼は駿河(静岡県)を任されていたので、日常的に徳川家康(内野聖陽)と接触していました(小山田信茂が北条氏と接触していたのと同じ)。だから、武田氏が織田信長に滅ぼされるぐらいなら、一族の自分が裏切って残れば、武田氏は滅びずに済むし、自分が一族の長になれると思ったのでしょう。彼は、本能寺の変の際、同行していた家康とは別行動で畿内から脱出するのですが、一揆に襲撃されて横死します。ちなみに、彼の妻は、武田信玄の娘・見性院で、のちに保科正之(徳川秀忠の子で、会津藩祖、4代将軍・家綱の後見役)を養育したことで知られています。


勝頼が、人格高潔な人物として描かれていましたが、最近の歴史研究でも彼の評価は高いです。

祖父の信虎、父の信玄(晴信)時代は、国人領主層の独立性が高く、信虎の追放は国人領主層の意志で行われ、信玄が領土拡張に奔走したのも彼らの欲求を満たさないと反乱を起こされるからだったようです。勝頼は、国人領主層を統制するために、さまざまな施策を行ったと考えられています(笹本正浩『戦国大名の日常生活 ~信虎・信玄・勝頼』講談社選書メチエ、2000年)。

新府城の建設も、かつて信長が清洲→小牧→岐阜→安土と根拠地を移すたびに家臣団を再編成したように(千田嘉博『信長の城』岩波新書、2013年)、領主層の組織化のためだったと考えられています。

じつは、新府城を焼いた段階で、家臣団が離反してしまい、配下の兵が600人に減っていたのです。新府城は5000人くらいで守るのにちょうど良い設計だったので、戦えずに城を焼いたのです。

勝頼は、長篠の戦いで大敗したことで、無能扱いされますが、信玄も、戦国大名に成り立ての頃、上田原の戦いと戸石城の戦いで村上義清に大敗しているんですけどね。ちなみに、大敗は悪いことばかりではなく、信玄の場合、国人領主層のまとめ役で、父・信虎追放劇の黒幕であった板垣信方が戦死したので、逆に国人層の統制がやりやすくなったのではないでしょうか。勝頼の国人層統制もこの敗戦から始まりました。

ちなみに、戸石城は、山全体がガレ場(細かい石で滑りやすい)なので、難攻不落だったようです。信玄は、これを手に入れるのに、真田幸綱(昌幸の父)に城主を調略させています。じつは、ドラマの昌幸の台詞に真田が守っている城の中に「岩櫃城、沼田城、戸石城」とちゃんと戸石城を含めているので、「出た!戸石城!!」って思ってました。w

2016.01.11 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(2) |

穴山梅雪の裏切りは知ってたけど、
小山田信茂は知りませんでした。
温水さんが裏切るなんて!
とは、一緒に見てた母のコトバです。

2016.01.11 21:49 URL | cha-cha #- [ 編集 ]

最後まで勝頼に従い、戦死したのは土屋昌恒だけでした。子の忠直は、父の死の年に生まれたのですが、“忠臣”の子ということで家康に仕え、大名となりました。吉宗の将軍擁立に尽力した老中・土屋政直は彼の子孫です。

2016.01.11 23:43 URL | 王子のきつね #NVCdQGYY [ 編集 ]












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