パラトラパ雅こと中村雅彦教授が、人類と自然との共生について論じています。

21世紀の祓い(16)「共生的な関係という言葉の欺瞞」

人類と自然との共生という言葉は、ちょっと前ならエコロジー、最近はロハスなんて言われています。じつは、エコロジーとロハスには「越えられない壁」があるんですが、まあ、それはあとの話として、雅さんはこのロハスをつぎのように批判しています。

  Lifestyles Of Health And Sustainabilityの頭文字を取ってLOHASという。この概念は、健康、環境、社会正義、個人の成長および持続可能な生活(環境を破壊せずに維持できる生活)を重視する消費者にアピールする商品やサービスを提供する市場が米国で急成長しているところから、最近になってよく聞かれるようになった言葉でもある。

  身体に優しく、地球にも優しく、自己成長的な志向性に基づいた生き方が、先進諸国に暮らす人々の中で1つの流れを創り出すようになっている。それは個人の信念-価値体系としてのスピリチュアリティ概念の構成要素の一面であると指摘することもできるかもしれない。

  ただ、これがメディアによって造られ、煽られた概念だとすれば、単にこの言葉に踊らされているだけの感もしないではない。人間の欲望を満たす誘因を提供するサービス産業が、それだけ大きくなってきているということは、人間が「不自然」な生き方をするようになったことの表れではないだろうか。

雅さんもロハスという言葉に胡散臭さを感じているようで、それにはオイラも賛同します。

しかし、共生については、かなり考え方がちがうのです。

  人間と自然との「共生」という考え方にも、私は疑問を感じる。というのも、地球に優しくと思うようになるのは、人間様の一方的な思い入れかもしれないからである。いってみれば、共生とは「相思相愛」の相互選択関係の上に成り立っているものである。いくら、こちらが相手を愛しているといっても、相手が見向きもしれくれず、むしろ拒絶の意思を持っているとすれば「共生」などできる話ではないのである。

  かつて地球上に繁栄した恐竜にしても、彼らの多くは地球上の植物を食い荒らすだけの「消費者」でしかなかった。というのも、恐竜は裸子植物を食糧としていたためである。やがて、被子植物の隆盛により食糧源を失った恐竜は次第に北に移動するか、勢力を失っていった。そこに、大型の隕石の衝突があり、恐竜は絶滅したという学説もある。

  自然たる植物がパートナーとして選んだのは、昆虫である。植物が地球上に現れてからの期間の多くはシダなどの裸子植物の時代であった。やがて、植物は花をつけることにで昆虫と「共生」することに成功した。昆虫は蜜をもらい、それにたいして花粉を運んだ。こうして、被子植物は繁栄していった。植物たちはさらに、実をつけ、鳥を媒介に種子を運ばせることにも成功する。その結果 、裸子植物は被子植物に北に追いやられていった。

  昆虫、鳥類は、種子を運んだり、受粉を促進させる意味において、植物側にも歓迎される存在だったのである。だからこそ、現在もこれらの種はサバイバルしている。

  このように、人間がいくら「自然よ、お前を愛している」と言っても、その自然から遊離してしまった存在に成り下がっているホモ・サピエンスのことを、自然がベスト・パートナーとして見てくれているかどうか疑問に感じるのである。

雅さんにとっては「相思相愛」が共生なのです。

しかし、こんなことを考えると、共生はそんなものでないと気がつくはずです。植物は、光合成によって二酸化炭素と地中の無機物から有機物をつくりだし、同時に酸素を放出します。動物は、植物がつくった、有機物を食べ、酸素を吸って行動し、二酸化炭素を放出し、糞や尿を排出します。微生物は、動物の排出した糞や尿、さらには植物や動物の死骸、つまり有機物を無機物に分解します。この物質の循環が、食物連鎖であり、エコシステムであり、そして共生なのです。食うか食われるかも、りっぱな共生です。

雅さんが、恐竜滅亡の話のなかで、恐竜は一方的に植物を食べるだけの存在のように言っていましたが、恐竜の糞や尿を植物は利用しなかったのでしょうか(正確にいうと、微生物が分解した無機物なのだが)? べつに「相思相愛」である必要などないのです。敵対的であっても共生は成り立つ、…というか、敵対的共生こそ真の共生なのです。

むしろ問題なのは、人類がこうした物質の循環から切り離された存在になっていることです。江戸時代、100万都市・江戸では、長屋の便所の糞尿が農村に運ばれ、田畑に施肥されていました。そして、その田畑でつくられた作物が江戸の人々によって食べられていたのです。この循環からこぼれ落ちた有機物は、江戸湾の干潟に住む微生物によって分解され、その微生物をたべた魚類は江戸前としてふたたび人間に食べられていたのです。つい百数十年前まで、われわれはこうした共生のなかにいたのです。しかし、水洗トイレの普及により、糞尿は下水処理場で汚泥として取り除かれ、ふたたび物質の循環に戻ることはありません。

人類は、べつに「相思相愛」でなくてもいいから、こうした共生の輪にもう一度、戻らなければならないのです。

2006.08.14 | 心霊 | トラックバック(0) | コメント(0) |












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