以下は、「朝日新聞 DIGITAL」に載った特集【慰安婦問題を考える】「慰安所の生活、たどる 韓国の故文玉珠さんの場合」である。



(慰安婦問題を考える)慰安所の生活、たどる 韓国の故文玉珠さんの場合
2016年5月17日05時00分

 昨年末に慰安婦問題の解決について合意した日韓両国外相は共同記者発表で「多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題」と述べた。日本軍の慰安婦となった女性らが戦時中、慰安所で送った生活については、終戦直後の戦犯裁判資料や1990年代以降に口を開いた元慰安婦らの証言に残され、場所や時期、戦況によってさまざまだったとみられる。ただ、その境遇や移動経路が、本人の証言をもとに軍の記録や関係者の日記、現地調査などで詳細に追跡できる例はそれほど多くない。今回はその一例として、韓国の文玉珠(ムンオクチュ)さん(1924~96)が語った部隊名や地名を手がかりに、多くの日本兵らが犠牲となったかつての激戦地ミャンマー(ビルマ)を訪ね、足跡をたどった。
 ■ビルマ戦線を転々、証言と記録一致

 朝鮮半島南部・大邱(テグ)出身の文さんは、日本が英領ビルマを占領した直後の1942年から45年までの約3年間を過ごした。体験を聞き書き(資料〈1〉)した福岡市のフリーライター森川万智子さん(69)とともに、記者は昨年10月末に現地を訪れた。

 ミャンマーは豪雨による水害に悩まされた雨期が明け「1年で最も過ごしやすい季節」という乾期だった。中部のマダヤで慰安所だったという建物は、今も住宅として使われていた。近所の男性、ウ・トゥンエイさん(84)は記者に「日本兵と10人くらい女性がいて『酒、酒』と言っていた」と答えた。

 戦前や戦中の朝鮮半島で、女性の多くは学校に通えず、読み書きが十分できないまま慰安婦となったという(資料〈2〉)。言葉もわからない外国に連れて行かれ、慰安所の部隊名や地名も思い出せない人も多い。文さんは夜間学校で学んで日本語ができ(資料〈1〉~〈4〉)、91年に名乗り出てからもビルマの地名や部隊名を具体的に答えたため、軍の資料や元兵士の証言などでの追跡調査が可能になった。

 文さんの証言によると、ビルマの慰安所で将兵の相手をした際の料金は兵士が1円50銭、下士官2円、少尉~大尉2円50銭、少佐~大佐3円(資料〈1〉)。他の証言(資料〈2〉~〈4〉)や当時の軍の規定(資料〈5〉)、米軍がビルマで捕虜とした朝鮮人慰安婦らの尋問報告書(資料〈6〉〈7〉)でもほぼ同様の額となっている。

 平日は、1日十数人~数十人の相手をした。午前9時から兵士、午後4時から下士官、9時以降は泊まりの将校(資料〈1〉〈2〉)。「逃げられないので働くしかなかった」。抵抗して殴られる女性や、川に身を投げ自殺した女性もいた一方、首都ラングーン(ヤンゴン)で週1回か月2回、許可をもらって外出して買い物をし、市場で宝石を買ったこともあったと語っている(資料〈1〉)。

 文さんは10代で2回、慰安婦となった。最初は16歳だった40年秋ごろ。大邱で男らに呼び止められた。「日本人と朝鮮人の憲兵や刑事に呼び止められた」(資料〈1〉〈3〉〈4〉)とか「軍服を着た日本人に引っ張られた」(資料〈2〉)などと証言している。

 旧満州(中国東北地方)北部で日本兵の相手をした。「毎日20~30人ほどの兵隊が来た」。翌41年秋ごろ、母の病気を口実に列車の切符(乗車券)を買う許可証を軍人からもらって帰郷した(資料〈1〉~〈4〉)。

 翌42年夏。「軍の食堂で働けば金が稼げる」と友人に誘われた。船で釜山を出た7月10日という日付は、文さんの記憶と米軍の尋問記録(資料〈7〉)が一致する。ビルマ中部のマンダレーに着くと朝鮮人兵士から「だまされて来たんだな、かわいそうに」と言われ、慰安所と知ったという。

 文さんは「私はタテ八四〇〇部隊の軍属だった」と語った。香川県の善通寺で編成された陸軍第55師団「楯(たて)」の司令部が「八四〇〇部隊」だった。日本軍が侵攻してマンダレーに師団司令部が置かれた(資料〈8〉)直後の42年6月、近郊の町にも慰安所が開設されたことが元兵士の手記(資料〈9〉)に残っている。

 文さんがプローム(ピイ)にいたときの慰安所の名は「乙女」。森川さんがピイで97年に会った元日本軍兵補ウ・サンペさん(故人)は、第55師団で通訳を務め「慰安所にオトメという朝鮮人グループが来ていた」と言い、「オトメ」として使われたピイ市内の住宅に森川さんを案内した。木造2階建てで警察官舎として使われていた。

 森川さんは97~98年、ミャンマーに滞在し、ヤンゴン、マンダレーなど13都市で、日本軍慰安所だったとされる建物計22軒を、住民の証言や軍の資料などで確認した。「『乙女』という慰安所の名が一致するなど、文さんの記憶の確かさを実感することになりました」

 吉見義明・中央大教授は文さんの「逃げられなかった。外出は許可制」(資料〈1〉)との証言から「性の相手を拒否する自由、廃業の自由、外出の自由など重大な自由が剥奪(はくだつ)された状態だった」とみている。

 ■文さんの郵便貯金の記録 元金の8割、45年春に預け入れ

 文さんは91年、日本に損害賠償を求める訴訟に加わった(資料〈1〉〈3〉〈4〉)。戦時中にためた軍事郵便貯金の支払いを求め、「貯金には悲しい歴史が込められている」と訴えた。郵便局員だった森川さんは、文さんが貯金支払いを求める運動を支援する中で、聞き書きを始めた。

 92年5月には郵政省熊本貯金事務センター(当時)が日本名「文原玉珠(ふみはらぎょくしゅ)」名義の口座を確認。文さんの記憶が一つ裏付けられたが、貯金を受け取れぬまま、96年に72歳で亡くなった。

 占領地では軍などが発行した手形「軍票」や「南方開発金庫券」(資料〈10〉)が現金代わり。兵士から切符(引換券)を受け取り、慰安所経営者に代金に換えてもらう仕組みだったが、文さんは「経営者の朝鮮人『マツモト』は、切符をなかなかお金(軍票)に換えてくれなかった」と語った(資料〈1〉〈3〉〈4〉)。米軍の尋問報告書でも、慰安婦は慰安所で稼ぎの50~60%を楼主に渡し、さらに食料や物品代金として多額を請求され、生活困難に陥ったと書かれている(資料〈6〉)。

 文さんは日本語が話せて日本の歌も歌えたため、将校らの宴会で歌や踊りを披露してチップをためることができたという。「私だけ大金を持っているのは都合が悪い」(資料〈1〉〈3〉〈4〉)と、野戦郵便局の軍事郵便貯金口座に預けた。預入額合計は2万6145円で、戦後に利子が加算され、日韓条約締結時の65年現在で残高は5万108円になっていた。「故郷に5千円送った」とも語っているが、貯金の記録からは送金の形跡はたどれない。

 元慰安婦の軍事郵便貯金記録が開示された数少ない例だったため、貯金の価値をめぐって論争が起きた。現代史家の秦郁彦氏は「今なら1億円前後の大金」と主張。43年の勅令「大東亜戦争陸軍給与令」をもとに、二等兵は月給7円50銭、中将でも年俸5800円だったとして、文さんが「在ビルマ日本軍最高指揮官より多く稼いだ」と書いた(資料〈11〉)。

 一方吉見氏は、元金の8割にあたる2万560円分が45年4~5月の預け入れであることに注目。ビルマは戦況悪化でインフレが進み、物価が45年に東京の1200倍と急激に悪化した(資料〈10〉〈12〉~〈14〉)ことを踏まえ「貯金の大半は、日本がビルマ撤退を決めて軍票がほぼ無価値になった時期にもらったもの」と解説する(資料〈1〉〈13〉〈14〉)。

 元慰安婦の多くが「お金をもらったことはない」と語っており、吉見氏は文さんについて「チップでお金を稼いだ例外的存在だった」とみている。秦氏も、元兵士が満州で朝鮮人慰安婦から「一銭ももらっていません。全部親方が取り上げてしまいます」と聞いたとの回想記を紹介し、「楼主の不払いは意外に多かったとも思われる」と分析している(資料〈11〉)。

 ■管理人の日記 「移動は軍の命令」の記録も

 文さんらのビルマでの暮らしは、慰安所の帳場係をしていた朝鮮半島出身の民間人男性がつけていた日記からもうかがえる。43年から2年分が「日本軍慰安所 管理人の日記」の題で13年に韓国で出版され、文さんの証言に出てくるのと同じ名前の人も登場する。

 いったん慰安所を出た女性2人が「兵站(へいたん)の命令で再び慰安婦として戻ることになった」(43年7月29日)。軍からの移転指示に女性らが反対したものの「司令部の命令に勝てず、移ることに」(43年3月14日)。慰安婦の求めで「600円を本人の貯金からおろして送った」(44年10月27日)ことも書かれている。

 43年3月の日記には、ビルマで「乙女亭」という慰安所を経営する「松本恒」なる人物も登場する。文さんの証言と一致しており、韓国の研究では場所、人物とも同一とみられている。

 日記はハングルや漢字表記が中心だが、日本語の仮名も交えて書かれていた。連隊本部での避妊具(千個)の受け取りなど、軍の統制のもとに慰安所が存在していたことをうかがわせる。日記を調べ、著書にまとめた安秉直(アンビョンジク)・ソウル大名誉教授は「慰安所は兵站の一部である実態が日記で鮮明になった」と指摘する。

 男性は長年にわたり日記をつけてきた。安名誉教授は「日記の大半は、どこで寝起きしどこへ行ったという日常の記述。慰安所の様子を後世に伝えようという意識はないだけに、かえって信頼できる。42年の分が見つかると、業者が女性を募集した実態がわかる可能性がある」と語る。

 ■元兵士ら回想記 激戦地、命落とす慰安婦も

 慰安婦らは戦争の最前線に送り込まれた。生還した元兵士らの回想記には、多くの慰安婦も命を落とした様子が記されている。

 「慰安婦たちは看護婦がわりに働いている。『どこでもいい、この場から一緒に連れて逃げて』とすがりつくが、どうにも仕様がない」。新聞記者出身でビルマの激戦地から生還したという品野実氏は、81年の著書「異域の鬼」(谷沢書房)で、下士官から聞いた44年秋の状況をこう書いた。

 ビルマ戦線は日本兵32万人のうち19万人が戦死や戦病死、行方不明となった激戦地だった。43年秋以降、連合軍の大規模な空爆による反撃が本格化した。文さんも、空襲に遭ったといい、次のように証言している。「毎日のように爆撃された。いったん空襲が終われば、また慰安婦の仕事をしなければならなかった」(資料〈1〉)

 軍楽隊奏者としてビルマ戦線で演奏したという斎藤新二氏は95年の著書「軍楽兵よもやま物語 第二十八軍軍楽隊ビルマ戦記」(光人社)で、45年7月の風景を描いた。「哀れを誘うのは慰安婦の集団だった。体を張って稼いだ軍票の束を体にくくりつけて、筏(いかだ)を河に乗り入れた。水をふくんだ札束はあまりにも重かった。彼女らはことごとく水に流された」。慰安婦らが必死に抱えていた軍票は、日本の敗戦で紙切れ同然となった(資料〈11〉)。

 ■徴集形態、4分類

 日本軍の慰安所は1930年代に中国でつくられ、アジア各地の占領地に広がった。慰安婦の出身地もさまざまで、日本本土のほか、朝鮮半島や台湾の出身者もいた。

 元アジア女性基金専務理事の和田春樹・東京大名誉教授は、慰安婦を徴集形態で4分類した。(1)軍人が暴力的に拉致監禁(フィリピン人など)(2)収容所で拘束された女性を軍人が強制的に慰安所へ連行(オランダ人)(3)軍の依頼を受けた業者が主に詐欺的手段で集めて軍が運ぶ(朝鮮人・台湾人)(4)軍の依頼で業者が女性を慰安婦として働くよう説得(日本人)。

 日本軍が直接、暴力的に連行した(1)の例はフィリピン政府の2002年の報告書にある。兵営とされた病院などに現地女性を監禁し、集団で強姦(ごうかん)した事例もあったと記された。(2)は、インドネシアで収容所に入れられた女性が慰安所に送り込まれた例が、戦後の戦犯裁判の記録に複数残っている。

 慰安所での生活をめぐっては、韓国人や中国人、オランダ人の元慰安婦らが日本政府を相手取り日本の裁判所に提訴した裁判で、賠償請求を退けつつ、戦時中の被害事実を認定した判決もいくつか出た。「1日30~40人の相手をさせられたが金銭は渡されなかった」「兵士から軍靴で蹴られ、刀で切りつけられ傷痕がいまも残る」などと判決文に記された。

 慰安婦は何人いたのか。総数を示す公式記録はなく、当時の日本兵の総数とかけあわせた研究者の推算値ぐらいしか、参考になる数字はない。秦郁彦氏は2万人前後、吉見義明氏は5万人以上と推算している(資料〈11〉〈14〉)。

     *

 慰安婦問題をめぐっては、2014年12月に連続インタビュー、15年6月には座談会で専門家の考えを聞きました。7月には日本軍で慰安所がつくられた経緯を軍や警察の公文書でたどり、11月には米国での慰安婦碑・像の建立をめぐる論争を伝えました。今年3月には慰安婦と「挺身(ていしん)隊」の混同など、韓国で慰安婦問題がどう報道されてきたかを整理しました。

 日韓合意の履行をめぐる動きや、戦場における女性の人権の問題など、今後もさまざまな側面から慰安婦問題を伝えます。

 ■記事に引用した資料(〈1〉~〈14〉)

〈1〉文玉珠・語り、森川万智子・構成と解説「文玉珠 ビルマ戦線 楯(たて)師団の『慰安婦』だった私」(1996年、新装増補版2015年、梨の木舎)

〈2〉韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会・挺身隊研究会編、従軍慰安婦問題ウリヨソンネットワーク訳「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(1993年、明石書店)、アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集2」(2010年、明石書店)

〈3〉文玉珠「陳述書」(1996年5月27日付で東京地裁に提出)

〈4〉文玉珠「速記録」(1996年5月27日、東京地裁「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件」第17回口頭弁論での原告本人尋問)

〈5〉「駐屯地慰安所規定」(昭和18年5月26日、「マンダレー」駐屯地司令部)〈女性のためのアジア平和国民基金編「政府調査『従軍慰安婦』関係資料集成(4)」(1998年、龍渓書舎)所収〉

〈6〉アメリカ戦時情報局心理作戦班「日本人捕虜尋問報告第49号 1944年10月1日」〈吉見義明編「従軍慰安婦資料集」(1992年、大月書店)所収〉

〈7〉東南アジア翻訳尋問センター「心理戦 尋問報告第2号 1944年11月30日」〈「従軍慰安婦資料集」所収〉

〈8〉防衛庁防衛研修所戦史室「戦史叢書(そうしょ) ビルマ攻略作戦」(1967年、朝雲新聞社)

〈9〉河村勇「山砲兵第八中隊ビルマ戦記(一)」〈香川県ビルマ会「パゴダに捧ぐ ビルマの夕映え(続)」所収〉

〈10〉小林英夫「日本軍政下のアジア―『大東亜共栄圏』と軍票」(1993年、岩波書店)

〈11〉秦郁彦「慰安婦と戦場の性」(1999年、新潮社)

〈12〉安藤良雄編「近代日本経済史要覧」(1975年、東京大学出版会)

〈13〉日本軍「慰安婦」問題webサイト制作委員会編「Q&A 朝鮮人『慰安婦』と植民地支配責任 あなたの疑問に答えます」(2015年、御茶の水書房)

〈14〉吉見義明「日本軍『慰安婦』制度とは何か」(2010年、岩波書店)

 ◇この特集は、編集委員・北野隆一、箱田哲也が担当しました。

2016.05.30 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |












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