清水富美加「出家」事件について、江川紹子氏がつぎのように書いていた。

 報道によれば、清水さんの側から所属事務所に離脱の意志が伝えられたのは、1月28日。マネジャーに対して、清水さんは女優としての活動より「もっとやりたいことができた」という趣旨の発言をしたという。さらに2月1日に教団側の代理人弁護士から「契約を2月20日で終わらせたい」などとする内容証明が、事務所に届いた。

 「やりたいこと」を求めるのは、本人の自由だ。職業の選択の自由は保障されている。しかしまた、世の中の営みの多くは、契約で成り立っているわけで、それが簡単に反故にされては、社会が成り立たない。

 彼女の場合、契約の満了期間は5月20日というから、あと3カ月、約束していた仕事をこなし、できるだけきれいに後始末をする努力をしていれば、迷惑を被る人は最小限に抑えられただろうし、損害の金額も抑えられただろう。それを待てない、というのは、いかにも性急、唐突で、身勝手な印象を受ける。

 これについて、教団側は記者会見で次のような説明をして、清水さんと教団の対応に理解を求めた。

「宗教には大きな善、小さな善という考え方がある。期待や責任を放棄することは一見悪いことに思えるが、一日も早く一人でも多くの方が救われる大きな善を取る」

 自分たちがやっていることは「大きな善」であり、偉大な救済活動であって、その大いなる価値のためには、世俗の人々が行う「小さな善」などは犠牲にしても構わない、ということである。犠牲を強いられる人たちは、教団の価値観を押し付けられるに等しい。それを受け入れるべきだ、というのである。

 信者たちが教団の価値観を絶対的な善、正義、真理であると信じるのは、まさに信仰の自由として認められるべきだが、教団外の一般の人たちにも、その価値を強いる独善性に、カルト性を感じてならない。

江川紹子が見る「清水富美加・出家騒動」――メディアは芸能界の労働事情とは切り離した報道を

「大きな善」といえば、オウム真理教の「ポア」を思い出す。「ポア」とは、チベットの仏教用語で、「(人の意識を)移す」こと、とくに「死後、人の意識を仏界に移す」ことを意味する。しかし、オウム真理教ではつぎのように解釈されていた。教団の「大きな善」を邪魔して「悪業を積む者」は、そのまま生かしておいたら、さらに「悪業」を積み、来世で苦しまなければならない。それを避けるためには、一刻も早くその生命を絶つ必要がある。そうすれば、これ以上「悪業」を積むことがなくなり、本人のためになる。つまり、教団の「大きな善」のためには、殺人も許されるというわけである。

幸福の科学も、教祖の精神病院通院歴を『フライデー』で暴露した講談社に対して、抗議行動を行ったが、その際、大量の嫌がらせ電話とファックス送信を行った。江川氏によると、「送り付けたFAX文書の総量は約55,000通、重量約240㎏に及び、同社は業務ができなくなった」のだそうだ。明らかな威力業務妨害だが、「大きな善」のためにはかまわないと教団は考えていたのだろう。

今回の事件でありがちな批評につぎのようなものがある。

 もちろん、やりかけの仕事を放置したまま一方的に退社した清水は社会人としての責任は免れない。だが、清水の出家をきっかけに、旧態依然とした芸能界の体質そのものも問題視されているのである。

清水富美加は第2の能年玲奈? 問われる芸能界の労働問題

芸能界の体質も問題だが、カルトの異常行動はもっと問題だ。この手のマヌケな批評に対して江川氏は

 二つの教団[オウム真理教と幸福の科学]を同一視するつもりはないし、芸能界のあり方には、それはそれで疑問を感じるにしても、メディアで清水さんの「出家」を論じる時には、二つの問題を混同して語るのはやめた方がよい。

江川紹子が見る「清水富美加・出家騒動」――メディアは芸能界の労働事情とは切り離した報道を

と論じている。

2017.02.24 | 時事ネタらしきもの | トラックバック(0) | コメント(0) |












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