以前、ねる(長濱ねる)の発想が構造主義的だと書いた。

構造主義者ねる

今回もオモシロイことを書いている。

コロッケってずっと言ってると、
あれ?コロッケっていう名前だよね?ってなります。



漢字とかずっと見てる時になる、
あれ、こんな漢字だっけ?っていう感覚と同じ。

不思議~

門出、174|長濱 ねる

内田春菊『幻想の普通少女』のこの部分と同じ。




このマンガに言語学者の立川健二氏が《記号が記号であることをやめ、「物そのもの」とでもいいたくなるような、なまの手ざわりをもち始める…》と解説している。

精神科医で評論家の斎藤環氏なら、精神病(=統合失調症)のように「自明性」が失われた状態、「象徴界」が壊れて「現実界」を垣間見た瞬間と言うだろう。

ちょっと退屈
そうやって笑いながら
きみは思いを
どこにかくしてるの

冬City-1 / 安全地帯

2017.03.13 | ├ 欅坂46 | トラックバック(0) | コメント(2) |

 統合失調症発症予備軍の若い人たちは、「世界との生き生きとした接触」の感覚を喪失していることが少なくありません。これをドイツのブランケンブルクという人が、「自明性の喪失」という概念で発展させました。これは、統合失調症が寛解したあとも長く続くことがあります。

あるいは、一般の人が、瞬間的に統合失調症の世界に一瞬触れてしまう時の体験ともいえるでしょう。

「自明性の喪失」とは、わかりやすくいえば、一般の人が日常を生きていくうえでは「当たり前すぎる」ことの「当たり前さ」加減が全然ピンと来なくなるということです。

自分という存在が、外の「世界」との関わりにおいて、どういう様式で存在するかという、非常に実存的な次元での根底的な存在様式の違いということです。

 具体的な例として、このブランケンブルクの著作の中でつとに著名な、アンネ・ラウの症例での患者自身の発言から引用しますと:

 「…誰でも、どう振る舞うかを知っているはずです。誰もが道筋を、考え方を持っています。 動作とか人間らしさとか対人関係とか、そこにはすべてルールがあって、誰もがそれを守っているのです。でも私にはそのルールがまだはっきりとわからないのです。私には基本が欠けていたのです。・・・(中略)・・・ 他の人たちはそういうことで行動しているんです。そして誰もがともかくもそんなふうに大人になってきたのです。考えたり行動の仕方を決めたり、態度を決めたりするのもそれによってやっているんです…。」

ブランゲンブルク自身は現存在分析系の人ですが、斎藤環先生のこの概念の理解は、かなりラカンに引き付けたもののようですね。

「言葉のサラダ」というのが統合失調症患者の症状のひとつとしてよく言われます。言語の機能が崩壊した様な言葉の羅列の事です。

意味の分からない言葉の羅列、文法としては合っているがよく考えると意味的に通らない言葉、合っていそうな感じはするが助詞等の使われ方が不適切で意味が通らない言葉、定義が明らかでない独自定義用語ばかりで何を言っているのか意味が掴めない言葉、等々。

調べた範囲では、フッサール→ハイデガー→メルロ・ポンティ→ラカンとつながるようですね。

メルロ・ポンティはハイデガーをフランスに呼んで講演してもらったりもしているようです。

「知覚の現象学」は取り寄せ済み。身体論を基盤としているので私と相性よさそう。

晩年のラカンにとって、精神分析は言語(象徴的)において作動するというよりも、分析家の身体的現前(イマジネール)において作動するものとと捉えられていたようなのだ。

2017.03.13 18:40 URL | chitose #BXy/Vbyc [ 編集 ]

ブランケンブルクの「自明性の喪失」は、斎藤環氏の『生き延びるためのラカン』で知りました。chitoseさんの説明の方がくわしいくらいですけど…。w

私自身の「自明性の喪失」体験は2つあります。w

1つは方向感覚が逆転する体験で、はっきり覚えているものとしては、2回あって、1回目は小学生のころ、2回目は大学院生のときです。1回目のときは、体育の授業で後転をしてたら、方向感覚が逆転してしまって、家に帰るときも、どんどん家から遠ざかる感覚でした。2回目のときは、千葉から埼玉県に住んでいる後輩(女性)を送って行ったときで、武蔵野線で南浦和方面に向かっているのに、船橋方面に向かっている感覚でした。翌日になると直っているので、数時間だけですが、ひじょうに変な感じでした。

もう1つは幽霊を見るときで、私の場合、人間の形をしていないことが多く、子どもの頭くらいの黒い球が宙に浮いていたり、若い男性の顔が妹の額にプリントされていて、人の形をしている幽霊よりも、「物そのもの」感が強いのかもしれません。

これらの体験は、菅野覚明氏が『神道の逆襲』のなかで(萩原朔太郎の作品に出てくる)「風景の裏側」と呼んだ体験に近いと思います。
http://kitsunekonkon.blog38.fc2.com/blog-entry-2675.html

菅野氏は、「無分別」な者だけが「神に愛される」と論じています。
http://kitsunekonkon.blog38.fc2.com/blog-entry-3072.html

2017.03.13 22:41 URL | 王子のきつね #NVCdQGYY [ 編集 ]












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