これは、もともとgooブログの方にあったのですが、こちらに再掲します。



「東海道四谷怪談」は四世・鶴屋南北によって書かれ、1824年に上演された歌舞伎の演目である。しかし、その題材として「四谷雑談(よつやぞうたん)」という実録小説が存在する。もちろん、内容はちがっているが、ここでは「四谷雑談」が収録された『日本怪談集・江戸編』(高田衛・編)と『お岩と伊右衛門~「四谷怪談」の深層』(高田衛・著)を参考にして、その概要を説明する。


●お岩と伊右衛門の結婚

四谷左門町に住む御手先組同心・田宮又左衛門は、律儀な人で頭からもよく思われていたが、目を病んで勤務困難となり、お岩という成人した娘がいたので、聟をとって隠居しようとした。4~5年、適当な人を探したが、お岩の性質が悪いせいか、誰ひとりとして聟入りを承知する者がいなかった。お岩は、21歳で疱瘡をわずらい、顔がひきつり、髪はそそけだって白くなり、腰は屈曲し、目はつぶれてたえず涙がにじみ、声は狼のごとく、その姿かたちは醜く不快感を与えるひどいものとなった。

又左衛門は、娘を心配しながら、51歳で死去した。跡目を継ぐ男子がいないので、あらためて聟探しをしたが、誰ひとり来てもよいという者はおらず、組のなかでは、出家して尼になるか、他家に奉公に出して別に適当な人に田宮家の跡目を継いでもらうしかない、という者もいた。お岩は猛烈に反発し、聟をとって跡目を継ぐべき自分を外に出して、他人に跡をゆずるとは何事か、と目を血走らせて激昂し、口もきかず、そっぽを向く始末であった。

組の者たちは、下谷金彩に住む「小股潜りの又市」という嘘つきの名人に人探しを頼んだ。又市は、摂州浪人で31歳の美男・伊右衛門という、大工・建築の術にすぐれていた男を、お岩の姿を見せず、嘘八百をならべて、強引に聟入りさせた。挙式後にお岩の顔姿を見て、伊右衛門は愕然なったが、もう遅かった。田宮家は伊右衛門を跡目にしたのである。
●お岩と伊右衛門の離婚

上司の与力に伊東喜兵衛という「放逸無慙」な五十男がいた。財力があり、家作を趣味としており、伊右衛門はしだいに伊東家に入りびたるようになった。喜兵衛は妻をもたず、18歳のお梅、20歳のお花という二人の妾をもっていた。二人とも容貌にすぐれていたが、伊右衛門はお花に惹かれていった。お花も伊右衛門に惹かれていたが、伊東は酒宴のとき、酔いつぶれたふりをして、互いに惹かれながら、何もできないでいる二人の挙動を、じっと窺っていた。

そのうちお花が妊娠した。伊東喜兵衛は、養子をとっており、白髪の自分が妾腹で子を生ませては外聞が悪いと、懐胎したお花を誰かに押しつけようと考え、その相手に伊右衛門を選んだ。伊右衛門は断ったが、お花への未練は見え見えであった。伊東はお岩と離別する悪計を授け、お岩へのいや気とお花への色気から伊右衛門はその悪計にのる。



伊右衛門は、突然酒色に耽り、家財を叩き売って娼婦を買い、諌めるお岩に殴る、蹴る、縛って吊るすなど暴行を加え、お岩の衣類まで博奕のかたにする。お岩は、虐待に耐えられず、困惑し、歎き悲しむ。伊東喜兵衛は、相談にのるふりをして、伊右衛門の素行のため田宮家は断絶するだろうと脅した。そして、「伊右衛門の道楽はもはや止まないから、今すぐ離別したほうがよい。どこかで物縫い奉公などしているうちに、良縁を見つけてあげよう。そうすればあなたの身も立つ」と説き、お岩は喜兵衛の言葉を信じ、家を出て三番町あたりの旗本屋敷に奉公した。


●伊右衛門とお花の結婚、お岩の失踪

伊東はお花を伊右衛門と結婚させた。組の者は、伊右衛門とお花の挙式に不信感を持ち、割りきれない気持であったが、秋山長右衛門は謝礼めあてに媒酌を引き受けた。二人の婚礼のとき、数度にわたって「赤い小蛇」が出るなど怪異があった。しかし、腹の子も無事に生れ、女の子でお染と名づけられた。



きざみタバコを行商する茂助という商人が、三番町を行商中に、お岩の奉公先に行きあたった。茂助は、伊右衛門の遊蕩や道楽は伊東の謀りごとで、お岩を離別させるためだった。伊右衛門は秋山の媒酌でお花と結婚、仲よく暮らしている、と話してしまった。

お岩は、顔色をかえ、目は逆ずり、歯がみして怒った。伊右衛門も伊東も秋山も、寄ってたかって自分をおとし入れたのか、そのままでおくものか、と身もだえして大声で泣きわめいた。周囲のなだめや抑えもきかず、夜叉のような、鬼女のような表情で、人々を蹴ちらして飛び出し、行方不明になってしまった。その後も行方を探したが、30年間、行方不明のままとなった。


●お菊、鉄之助の死

伊右衛門とお花は、美男美女夫婦であったが、子供も四人できた。長女・お染(14歳、伊東喜兵衛の子)、長男・権八郎(13歳)、次男・鉄之助(11歳)、次女・お菊(3歳)である。ある年の7月18日、家族が夕涼みをしていると、庭先の木陰から女が現れ、伊右衛門をうらめしげに見ながら通りすぎた。それは伊右衛門の目にだけ見えて、他の家族の目には見えなかった。お岩であった。伊右衛門は気にもしなかったが、人もいないのに戸を叩く音がしたり、「伊右衛門、長くはあるまじ」という声が聞えたりした。鉄砲を所持していた伊右衛門は、幻視幻聴をしりぞけるため、空砲を撃った。しかし、その音に寝ていたお菊がひきつけを起こし、手当したが、8月15日に死んでしまった。



次に死んだのは、次男・鉄之助であった。お菊の三回忌の法事の日、法要が終ったあとの宴席に、鉄之助が走ってきて、裏庭にお菊がいた、という。そんな馬鹿なことがあるはずもない。もう一度見にいった鉄之助が、帰ってきて、おそろしいと泣きわめいた。大人が見にいったが、誰もいない。しかし、鉄之助は、震えながら泣きわめき、お菊はここへ来ているという。秋山長右衛門が、鏡で座を映してみたが、何も映らなかった。鉄之助が泣くので、守り札を天井にまで貼りつけたが、効果はなかった。鉄之助は、うなされつづけ、高熱を発して寝こみ、医師が手当をしたが、何の病か判断ができなかった。日蓮宗の僧侶を呼んで、祈祷をしたが、効果もなく、8月18日に死んでしまった。このあと、秋山長右衛門の娘が食あたりで死んだ。


●権八郎、お花の死、伊東家の断絶

5年後に長男・権八郎と妻・お花が死んだ。お花が悪寒に襲われ、床についた。権八郎はこのため、4月8日に増上寺の涅槃会に参詣したが、夜に発病して、うわごとを言って苦しみつづけた。そのまま寝こみ、5月9日に死去した。19歳であった。お花も40日後の6月27日に死去した。43歳で妊娠中であった。この間、後述する「多田三十郎事件」に連座し、伊東喜兵衛(隠居して土快と名乗る)の養子・喜兵衛が処刑され、伊東家は断絶した。

伊右衛門は、近所の人のすすめで、悪霊祓いをした。失踪したお岩は、その生死さえ不明だったので、その霊を呼びだし、死んでいれば霊をとむらって、タタリをまぬがれようとした。赤坂の不動院、明王院の山伏たち8人が、祭壇を作って不動明王像を逆さまに立て、10歳の少女に幣を持たせて真中に座らせて霊媒とした。少女にお岩の霊が憑依し、ことばを語りはじめた。それによると、田宮家の重なる不幸は、伊右衛門と伊東、秋山を怨む、お岩の霊のしわざだった。お岩の霊は、伊右衛門が必死でのべることばには耳をかたむけず、タタリつづける意志を明らかにした。伊右衛門はふるえあがった。伊右衛門は、にわかに信心深くなり、寺参りを欠かさなくなる。


●伊右衛門、お染の死、田宮家・秋山家の断絶

伊右衛門は、長女・お染に婿を迎えて、田宮家の後継者を定めた。ある日、嵐で破れた屋根を直すため、屋根にのぼり、足を踏みはずして腰を打った。大事にはいたらなかったが、耳の脇に怪我をし、その傷が膿みだした。傷口にネズミがきてしゃぶりはじめた。ネズミは伊右衛門を少しずつかじってゆくが、たいして痛みもなく、かえって気持ちがよかったので、食い破られていることに気がつかなかった。ネズミは昼も夜もやって来て伊右衛門を食う。追っても追ってもまた集まり、ネコを飼っても効果はなく、伊右衛門はどんどん衰弱していった。お染とその婿・源五右衛門に見まもられながら、ネズミよけの長持のなかで、ネズミに埋れながら死んだ。お岩は子年の生れであったという。秋山長右衛門の妻も病死した。

お染もまた病魔におかされ、25五歳で死んでしまう。源五右衛門が田宮家を継いだが、田宮家は化物屋敷という評判がたっていた。源五右衛門はまもなく乱心し、俸禄を召し上げられて田宮家は断絶した。

秋山長右衛門は、養子・小三郎をとって跡を継がせ、実子・庄兵衛に田宮家の跡目を継がせた。しかし、庄兵衛と長右衛門はあいついで病死し、小三郎も死に、秋山家は断絶した。伊東土快は、伊東家断絶後、知人の同心屋敷の間借り人になっていたが、ある年の12月28日に死んで冷たくなっているのを発見された。


●多田三十郎事件

多田三十郎事件は、「徳川実記」など江戸幕府の正史に記録された事件であり、「四谷雑談」との関係でひじょうに興味深い事件である。

元禄7(1694)年4月16日、700石の旗本・多田三十郎は、同じく旗本・兼松又右衛門と吉原に遊び、与力2名が同行した。多田は、遊興のさなかに外出し、気田喜八郎という下級武士と喧嘩になった。多田は斬殺され、気田は逃亡した。同行していた兼松は、多田殺害の知らせを受け、事件に巻きこまれたくないと現場から逃げ去った。与力2人も事件を聞いて狼狽し、多田の死体を放置したまま吉原を離れた。

妓楼・茶屋・供の者から、兼松・与力らの関連がわかり、彼らは翌17日に逮捕された。また、与力らの口から多田を斬殺・逃走した気田の名もわかり、捜索が始まった。19日ごろ、気田が捕らえられ、事情が判明した。旗本でありながら多田は、御法度の遊里での連泊がばれ、無名の武士と喧嘩して斬り殺されるという醜態をさらした。兼松は、現場にいながら犯人を捜索して討ちはたすべきだったのに、自己保身のため逃亡した。同伴の与力も同じである。

21日、多田三十郎の父・伝四郎正清は御納戸役組頭を免職、閉門が命ぜられた。三十郎死骸は、親の引き取りを許さず、浅草の刑場で(死骸を)打首にした。27日、兼松又右衛門も同じ刑場で斬罪となった。同日、犯人・気田喜八郎と与力2名が小伝馬町牢屋敷にて処刑された。多田、兼松、与力らの上司に、遠慮、謹慎等の処分があった。この与力2人のうち、1人が隠居して土快と名乗った伊東喜兵衛の養子・喜兵衛であった。


○参考
  高田衛・編『日本怪談集・江戸編』(河出文庫、1992年)
  高田衛・著『お岩と伊右衛門~「四谷怪談」の深層』(洋泉社、2002年)

  葛飾北斎筆の「近世怪談霜夜星(しもよのほし)」の挿絵を利用。

2017.03.17 | 心霊 | トラックバック(0) | コメント(0) |












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