井伊美術館の井伊達夫氏といえば、大河ドラマ「女城主 直虎」が始まる直前に「直虎は男だった」と言いだした人だ。

井伊直虎「女城主」じゃなかった説

そして、こんどは「通説より14年早く死んでいた」という説を唱え始めた。w

 同館によると、古文書は、井伊家の家臣だった河手家(かわてけ)の子孫がまとめた「河手家系譜」。

 この中の文政13(1830)年に書かれたページで、河手家の人物を紹介する文章の行間に、墨字で「井ノ直虎は幼かったので河手が補佐した」と追記。この「井ノ直虎」の隣に「次郎也」と朱色の文字が付け加えられていた。

 次の行には、墨字で「永禄11年の駿河崩れの時、落ち延びる直虎が討ち死にした」として、今川家滅亡のきっかけとなった徳川家康らの今川領侵攻で直虎が討ち死にした、と書かれていた。直虎は文献から一般的に、天正10(1582)年に井伊谷(静岡県浜松市)で死去したとされていた。

「おんな城主」?井伊直虎、通説より14年早く死去か 京都・井伊美術館が発表

直虎の死から250年後に書かれた「河手家系譜」が根拠とは、いささか弱いような気がする。また、この“井ノ直虎”にわざわざ“次郎也”と書いてあるのも怪しい。つまり、“井ノ直虎”は、井伊家の家督を代々継ぐ“次郎”を名乗っているんですよ、とわざわざ注記してあるのだ。だいたい「○○家系譜」というものが、先祖の手柄を誇るため、後世につくられるものなのだから、先祖の手柄をかなり盛って書かれているものなのだ。

じつは、次郎法師(直虎)が「女地頭」であったと書いてある「井伊家伝記」も、享保15年(1730年)に龍潭寺の祖山によって作成されているので、直虎の死から150年も経っている。こっちはこっちで、井戸より出生したとされる、井伊家の祖先・共保の供養のために、井伊家に援助を促すのが目的なので、史実が書いてあるかは、けっこう怪しいのだ。

両者の主張に折り合いをつけると、直虎は2人いて、1人は井伊直盛の娘「次郎法師」で、もう1人が関口越後守氏経の子「次郎」だ。「次郎法師」が徳政令問題で苦労するんだけど、このあと、小野政次(道好)が、クーデタを起こして、井伊谷を簒奪する。そのとき立てられたのが「次郎」なのだ。で、「次郎法師」は、直親の子・直政を徳川家康に仕えさせ、家康が井伊谷に攻め込んだときに、「次郎」は討ち死にする。その後、捕えられた政次は処刑されるという話だ。これなら、矛盾なく説明できるわけだな。w


ドラマだから、べつに史実に基づかなくてもよいのかもしれないが、見ている人のなかには史実だと思って見ている人もいるので、あまりテキトーなことは描かない方が良いだろう。w


リンクがキレてたら…
「おんな城主」?井伊直虎、通説より14年早く死去か 京都・井伊美術館が発表

 NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公・井伊直虎について、永禄11(1568)年に討ち死にしたことなどが追記された古文書が見つかったと、井伊美術館(京都市東山区)が発表した。

 同館は昨年12月、別史料をもとに、直虎が女性(井伊直盛の娘「次郎法師」)ではなく、今川家重臣の息子・井伊次郎という男性だった可能性があるとの新説を発表し、話題を集めた。今回の古文書解読による直虎の討ち死に時期は、従来の説より14年早く死去していたという第2の新説で、今後の研究が注目される。

 同館によると、古文書は、井伊家の家臣だった河手家(かわてけ)の子孫がまとめた「河手家系譜」。

 この中の文政13(1830)年に書かれたページで、河手家の人物を紹介する文章の行間に、墨字で「井ノ直虎は幼かったので河手が補佐した」と追記。この「井ノ直虎」の隣に「次郎也」と朱色の文字が付け加えられていた。

 次の行には、墨字で「永禄11年の駿河崩れの時、落ち延びる直虎が討ち死にした」として、今川家滅亡のきっかけとなった徳川家康らの今川領侵攻で直虎が討ち死にした、と書かれていた。直虎は文献から一般的に、天正10(1582)年に井伊谷(静岡県浜松市)で死去したとされていた。

 同館によると、墨字は嘉永6(1853)年に追加したと『河手家系譜』に書かれている。朱色の文字は誰がいつか書いたかは不明という。

2017.04.12 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |












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