白井聡『永続敗戦論 ―戦後日本の核心』(太田出版、2013年)を読んだ。その核心部分は以下のとおりである。

[前略]今日表面化してきたのは、「敗戦」そのものが決して過ぎ去らないという事態、すなわち「敗戦後」など実際は存在しないという事実にほかならない。それは、二重の意味においてである。敗戦の帰結としての政治・経済・軍事的な意味での直接的な対米従属構造が永続化される一方で、敗戦そのものを認識において巧みに隠蔽する(=それを否認する)という日本人の大部分の歴史認識・歴史的意識の構造が変化していない、という意味で敗戦は二重化された構造をなしつつ継続している。無論、この二側面は相互を補完する関係にある。敗戦を否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる。かかる状況を私は、「永続敗戦」と呼ぶ。
  永続敗戦の構造は、「戦後」の根本レジームとなった。事あるごとに「戦後民主主義」に対する不平を言い立て戦前的価値観への共感を隠さない政治勢力が、「戦後を終わらせる」ことを実行しないという言行不一致を犯しながらも長きにわたり権力を独占することができたのは、このレジームが相当の安定性を築き上げることに成功したがゆえである。彼らの主観においては、大日本帝国は決して負けておらず(戦争は「終わった」のであって「負けた」のではない)、「神洲不敗」の神話は生きている。しかし、かかる「信念」は、究極的には、第二次大戦後の米国による対日処理の正当性と衝突せざるを得ない。それは、突き詰めれば、ポツダム宣言受諾を否定し、東京裁判を否定し、サンフランシスコ講和条約をも否定することとなる(もう一度対米開戦せねばならない)。言うまでもなく、彼らはそのような筋の通った「蛮勇」を持ち合わせていない。ゆえに彼らは、国内およびアジアに対しては敗戦を否認してみせることによって自らの「信念」を満足させながら、白分たちの勢力を容認し支えてくれる米国に対しては卑屈な臣従を続ける、といういじましいマスターペーターと堕し、かつそのような自らの姿に満足を覚えてきた。敗戦を否認するがゆえに敗北が無期限に続く、それが「永続敗戦」という概念が指し示す状況である。

  そして今日、このレジームはもはや維持不可能なものとなった。ひとつには、グローバル化のなかで「世界の工場」となって莫大な国力を蓄えつつある中国は、日本人のかかる「信念」が中国にとって看過できない害をなすのであれば、それを許容しはしないということ。そして第二には、1970年代以降衰退傾向を押しとどめることのできない米国は、冷戦構造の崩壊以後、日本を無条件的同盟者とみなす理由を持だない、という事情が挙げられる。そのとき、米国にとっての日本は、援助すべき同盟者というよりも収奪の対象として現れる。だが、こうした客観的情勢にもかかわらず、「侮辱の体制」はいまだ頑として聳え立っている。

(前掲書、47~49頁)

戦後政治における親米保守・親米右翼の実態をじつにうまく表現している。

10月26日のテレ朝「モーニングショー」の「そもそも総研」で「リベラル」についてやっていたが、この分類にも「永続敗戦論」が影響を受けていた。


《保守=日米安保肯定的/革新=日米安保否定的》の部分。

問題なのは、「保守」が「永続敗戦」体制を保守するのに対して、「革新」がその打破を目指すわけではなく、「プロ野党」化して批判=ガス抜きしているだけな点だ。

ホンキで「永続敗戦」体制打破をするとなると、東アジア諸国への信頼醸成措置をともなった自主外交と、憲法改正をともなう真の自主防衛を目指さねばならず、内外からの妨害は激しく、めちゃくちゃハードルが高いということだ。

しかし、それをしないと、戦後は永遠に終わらないということになる。

2017.11.03 | ├ 政治ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |












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