昨夜の大河ドラマ「女城主 直虎」は、1579年に起きた徳川信康切腹事件の前半だった。w

家康(阿部サダヲ)の命を狙った間者が嫡男・徳川信康(平埜生成)の家臣だったことが判明し、信康の家臣である岡崎衆らは一斉に罰せられる。さらに家康の側室に新たな男子が誕生し、信康とその母・瀬名(菜々緒)の立場はいっそう弱くなる。焦る瀬名は直虎(柴咲コウ)に書状を出し、信康の嫡男を得るため側室の候補を探して欲しいと依頼する。しかしその動きは、信康の正室・徳姫の父にあたる織田信長(市川海老蔵)の知るところとなってしまう。そんななか、信長の使者として明智光秀(光石研)が岡崎城を訪れ、信康に官位を授かってはどうかと持ちかけるが、徳川家の実権を握るための作意を感じた信康は丁重に断る。安土城が完成し、祝いに訪れた酒井忠次(みのすけ)は信長から信康と武田の内通疑惑を突きつけられる。織田の言いがかりに逆らえない家康は、岡崎を訪れ、信康を捕らえる。

第45回 魔王のいけにえ

徳川家中はみんな仲良し、悪いのは魔王・織田信長!って話だった。

ところが、ドラマでもちょっこっと出てくるように、家康率いる浜松衆と信康率いる岡崎衆の間に「不協和音」があった。当時、徳川氏は武田氏と戦っていたが、最前線の浜松衆の方が軍功が大きく、恩賞もそちらの方が厚かった。そのことに岡崎衆が反発していたようなのだ。

井伊直政が家康に仕える前の話なのでドラマには出てこないが、長篠の合戦の1年前(1574年)に大賀弥四郎事件があった。弥四郎は、算術に長けていたので、中間から大抜擢されて三河国奥郡20余郷の代官となり、家康・信康双方から信任を得ていた。ところが、ある家臣が、弥四郎のとりなしで加増されたと弥四郎に吹聴されたので、それに怒って領地の返上を申し出た。家康が弥四郎を調べたところ、弥四郎が、武田氏に通じ、岡崎城を乗っ取って武田軍を引き入れる密約があったことが発覚した。弥四郎は、家族全員を磔で処刑された後、自らも鋸引きで処刑された。弥四郎は「大賀氏」となっているが、江戸町奉行・大岡忠相や9代将軍・家重の側用人・大岡忠光と同じ「大岡氏」出身なのではないかと言われている。この事件の背景にも岡崎衆の反発があったのではないかと考えられている。

信康切腹事件も、浜松衆と岡崎衆の間に対立があり、それが原因で家康と信康が不仲になり、そんな折、信康の妻で信長の娘である五徳(徳姫)から信長に訴えがあった。しかし、信頼できる史料では、信長は「家康に任せる」と言っており、家康の意思で信康の切腹が決められたようなのだ。

ドラマでも扱われるが、この事件に連座して信康の母・築山殿=瀬名も家康に殺されている。武田氏と通じていたというのが理由だが、つるんでいたのは岡崎衆だったのかもしれない。家康の命で佐鳴湖の近く(織田奈那の実家の近くw)で斬殺された。

事件の後、岡崎衆は処刑・逃亡するものが多く、その最大の人物が石川数正である。彼の場合は、ずっと後の1585年に出奔し、豊臣秀吉に仕えた。彼は、信康事件の後も重用され、本能寺の変後は秀吉との交渉に当たっていた。信康の後見人だったにもかかわらず、信康切腹後に岡崎城代となったので、「裏切者」として岡崎衆から憎まれ、孤立していたのかもしれない。秀吉に対しても、酒井忠次や本多忠勝など強硬派に対して、融和派だったので、ますます居場所がなくなったのだろう。

彼の出奔で軍事機密が秀吉に筒抜けになったので、徳川氏の軍制が武田流に変わり、武田の家臣団を率いていた直政の地位を高めることになる。

2017.11.13 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |












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