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「女王 未央」の主人公・李未央(馮心児)のモデルとされているのは、文成帝の皇后となった文成文明皇后(馮皇后)である。

このドラマ、未央は、李常茹や李長楽の陰謀によって何度も殺されそうになり、そのたびに濡れ衣を晴らすのだが、何度もそうなるので、いいかげん周りも気付けよ!とツッコミを入れたくなる。w

しかも、モデルがいるんだけれども、史実はまったく違う展開なので、そちらからもいろいろツッコミを入れたくなる。

最大のツッコミどころは、拓跋濬は452年に皇帝となるのだが、そのときの年齢が満年齢で12歳。



12歳には見えない。w

馮皇后にいたっては10歳だった。



10歳には見えない。wwwww

このドラマの本筋部分は、史実だと、主人公の2人とは関係なしに展開するのだ。
このドラマ、太武帝(408-452)の治世(423-452)の話なのだが、太武帝とは、北魏の3代皇帝で、439年に華北を統一した。これで、五胡十六国時代(304-439)は終わり、南北朝時代(439-589)に入る。


太武帝を演じる劉錫明



【太武帝時代の北魏の領域】(クリックすると大きくなる)


皇后(赫連皇后)は、夏を建国した匈奴の赫連勃勃(位407-425)の娘で、427年に太武帝が夏を滅ぼすと、後宮に入り、のち皇后となった。馮皇后の叔母(馮左昭儀)は、北燕の3代天王・馮弘の娘で、436年に北燕が太武帝に滅ぼされると、後宮に入った。馮皇后の父・朗は、北魏に帰順して西郡公に封じられたが、事件に連座して処刑された。馮皇后は、この馮左昭儀のつてで文成帝の後宮に入った。



太武帝には6人の男子がいたが、長男・晃(景穆太子)の長男(孫)が濬(文成帝)である。三男に東平王・翰で、六男が安南王・余であった。翰は、ドラマでは愚か者のように描かれているが、景穆太子の死後、太武帝がもっとも信頼する子で、次の皇帝と見なされていた。

太武帝が、華北を統一すると、漢人官僚の崔浩が力を持ち、漢化政策を推進した。彼は、道教を体系化した寇謙之を国師とし、446年から「三武一宗の廃仏」と呼ばれる仏教弾圧を始めた。これは、外来宗教であった仏教を弾圧することで、鮮卑系貴族の力を削ごうとした。また、鮮卑系貴族をバカにする国史を編纂したが、鮮卑系貴族から反撃され、450年に一族もろとも誅殺された(国史の獄)。

崔浩の失脚で宦官の宗愛が勢力を拡大し、451年、彼の讒言によるショックで景穆太子が病没した。その断罪を恐れた宗愛は、452年に太武帝を殺害した。尚書左僕射の蘭延は東平王・翰を擁立しようとしたが、宗愛は、赫連皇后の命と偽って、蘭延と東平王を殺害し、南安王・余を皇帝に立てた。宗愛は北魏の朝政を専断したため、南安王は、彼を処分しようとしたが、宗愛に先手を打たれ、殺害された。ここに至って尚書の陸麗・羽林郎中(近衛団長)の劉尼・殿中尚書の源らは、宗愛を誅殺して、景穆太子の子・濬を皇帝とした。

文成帝は、即位すると、民力休養を是とし、開墾殖産を奨励した。そして、仏教弾圧をやめ、雲崗石窟の造営を始めた。しかし、25歳で亡くなってしまう。ちなみに、彼が長男の弘(献文帝)をもうけたのは12歳だ。異常に若いが、彼の父・景穆太子が彼をもうけたのも12歳で、献文帝が長男の宏(孝文帝)をもうけたのは13歳である。なんか精通したら、即セックスみたいで、現在の感覚では理解しがたい。

馮皇后が、何歳で後宮に入ったかは不明だが、14歳のとき貴人となり、その後、皇后となった。彼女には子ができず、文成帝が亡くなると、悲しみのあまり、遺体を火葬する火中に身投げしたが、救出されて一命を取り止めたという。のちに権勢欲の強い女性と評された彼女もこの頃は純粋だったのだろう。w

北魏では、君主の嫡子が立てられると、その母親を殺害する「子貴母死」あるいは「立子殺母」という制度があった。これは正史では、「舊法(旧法)」とか「故事」とか「舊制(旧制)」と呼ばれており、初代・道武帝(拓跋珪)から始まった。しかし、それ以前は行われておらず、道武帝の宮廷で外聞をはばかる不祥事が起きたため、明元帝(嗣)の母・宣穆劉皇后を殺害することとなり、それを「舊法」と取り繕ったので、その後も世代を重ねて継承されてしまったのではないかと考えられる。この制度は、8代宣武帝(恪)の妃嬪で9代孝明帝(詡)の母、馮皇后とならぶ女傑の宣武霊皇后(胡太后)のとき、廃止された。

文成帝と李貴人の子・弘(献文帝)が即位すると、皇太后として補佐にあたった。しかし、献文帝が成長すると、対立が生じ、皇太后は、献文帝を脅迫し、471年には李夫人との子である宏(孝文帝)に譲位させた。献文帝も報復として太皇太后が寵愛していた家臣を殺害したため、476年に献文帝を毒殺し、政権を完全に掌握した。

太皇太后は、484年、同姓不婚・俸禄制・均田制・三長制・租調制など政治改革を行ない、北魏の全盛期をもたらした。一方、丞相乙渾など政敵を容赦なく処分し、謀反の目を事前に摘み取った。

晩年の太皇太后は、寵愛する家臣だけを側に侍らせ、斉の使者が美男子と知ると自らの宮殿に閉じ込めて帰還を許さなかったなどの行状が増えた。490年に49歳で死去した。

孝文帝は、太皇太后の政治を受け継ぎ、漢化政策を推進した。首都を平城(大同)から洛陽に移し、拓跋姓を元姓に改めた。孝文帝は、太皇太后と血縁になく、父の仇であるにもかかわらず、彼女の死後もその派閥や徒党を処分しなかった。そのため、じつは太皇太后の子だったのではないかと言われている。

2018.06.24 | ├ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |












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