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7月15日に奇妙なことがあったので、書こうと思う。


オイラの下の妹はオペラ歌手をしている。去年、大学時代の恩師から頼まれ、K市にある教会で開かれるチャリティ・コンサートで歌を披露することとなった。

去年6月18日(日)午前10時に妹は母とコンサートに出かけた。コンサートは、午後2時からはじまり、1時間ほどで終わった。

ドヴォルジャーク「わが母の教え給いし歌」、同「白銀の月よ」(歌劇「ルサルカ」より)、山田耕筰「中国地方の子守歌」の3曲であったが、アンコールで歌った「アヴェ・マリア」がいちばん好評だった。

午後4時、わが家にK駅から電話があり、母のSuicaが落とし物として届いているので、取りに来てほしいとのことだった。妹のスマホに電話したが、移動中らしく留守番電話になっていたので、電話するようにメッセージを残した。妹は、乗換駅で降りたところで電話をよこし、事情を説明したらK駅にSuicaを取りに戻った。このとき妹は正常だった。

午後5時、夕飯について妹に電話をすると、妹の様子が変だった。母がSuicaを落としたことを忘れていたのだ。

午後6時過ぎに帰宅したが、妹はコンサートについて記憶がなかった。帰宅後の出来事もしばらくすると忘れてしまった。妹は、記憶がないことが不安で、「今日は何曜日?」「今日は18日?」「今日はちゃんとコンサートができた?」と何度も尋ねてきた。母は妹の異変に泣き出した。

脳梗塞や脳出血だと怖いので、それを調べる簡単なテストさせたが、そうではなさそうだ。あまり寝られなかったと言っていたので、それが原因かと思った。記憶に必要な脳内物質アセチルコリンは睡眠中に分泌されるので、とにかく寝かせつけようと思った。

しかし、寝かせても、すぐに起きてきて、カレンダーの前に立って、「今日は何曜日?」「今日は18日?」「今日は…」を繰り返した。

翌日、記憶力は元に戻り、新しいことは記憶できるようになったが、前日のコンサート会場に着いてから寝るまでの記憶が完全に無くなっていた。1年以上たった現在でもこの間の記憶は戻っていない。

…とこんなことがあったわけだが、今年もまたやってほしいとの要望が来た。


そこで、7月15日、妹は母とともにコンサートに出かけた。今回は、ロシア民謡「黒い瞳」、アリャビエフ「夜の鶯(サヨナキドリ)」、プッチーニ「ある晴れた日に」(歌劇「蝶々夫人」より)の3曲を歌ったが、やはりアンコールの「アヴェ・マリア」がいちばん好評だった。

今回もコンサートの始まりは前回と同じだったが、例の恩師の知り合いのテノール歌手のジイさんが加わったので、長くかかった。しかし、母がSuicaを落とすようなことはなかったので、午後5時過ぎには帰ってきた。

ところがである。また、妹が記憶を失くしていた。本番の前に練習するのだが、練習中から本番のアンコールまでの記憶が完全に無くなっていた。記憶がなくても歌はうたえるようだが、3番で終わるところを4番まで歌ってしまったらしい。

ちなみに、母は、前回と同様に妹の様子がおかしいことに気づき、気が気じゃなかったと言っていた。


二度も記憶喪失となると、何かある!と考えるのがふつうだ。ちなみに、妹は年に何回もオペラに出演しているが、記憶喪失になったのはこの2回だけである。そうなると、場所に問題があるのではないかと思い、調べたら、そのとおりだった。


   ↑   ↑
K市は、戦前に結核治療のための病院がつくられ、そこを中心に療養所が数多く建てられ、発展してきた歴史があった。チャリティ・コンサートを開いた教会自体が、結核患者の強い要望で建てられたものだった。教会の裏手に公園があるのだが、その公園が最初につくられた病院の跡地で、病院が火災で焼失した後に公園になったという。ちなみに、その火災で教会の礼拝堂も消失してしまい、今の礼拝堂は2代目だそうだ。


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教会の前に病院があるのだが、その病院は「となりのトトロ」でお母さんが入院していた病院が移転してきたものだし、隣には結核研究所がある。


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教会の隣は、今は看護系の学校の敷地なのだが、以前は国立療養所の跡地であった。国立療養所は現在は独立行政法人となり、立派な建物になっていた。しかし、その裏手には「外気舎」という療養所時代の建物が残されている。
   ↓   ↓



外気舎記念館 ××××××療養所は昭和14年に建設されたのでありますが、同時にその一番裏手の松と雑木の静かな××自然林内に [中略] 診療室および食堂を中心として外気舎72棟が扇形に建設されました。そこでは1棟に2人づつ作業患者が入っておりました。その頃はまだ結核薬のない時代で大気・安静・栄養が結核治療の主軸であり、外気舎はその名のごとく外気療養を行うと同時に作業療法患者の病舎でもありました。作業療法盛んな頃は72棟の外気舎も満員で130名から140名ほど入舎しておりましたが、昭和41年4月に作業患者が18病棟に移転すると同時に外気舎も廃止されました。ところが今度その一部を移転、ここに記念館として永久に保存することとなりました。」
戦前・戦中はもちろん、戦後しばらくまで、結核は不治の病で、外気療法しか治療法がなかった。


わが家の家系で結核で亡くなった人はいないが、曽祖父の弟の三男とその妻、および四男が結核で亡くなっていた。

三男は、大学を卒業したが、戦後の不況で就職できず、日雇い労働をしていた。結婚して1男1女が生まれたが、まず三男が結核にかかり、ついで妻も結核にかかってしまい、2人とも療養所で亡くなった。長男は母方の家族が、長女は父方の家族が引き取った。彼女には私が幼い頃に遊んでもらった記憶がある。高校卒業後に家を出て、現在は行方不明となっている。

四男も、大学生だったが、結核になってしまった。祖父は、曽祖父の弟が所有する土地の一部(当時は畑だった)をもらうことを条件に、家を建てたが、それは四男の世話をさせるためだったようだ。事実、祖父が引き取る前の四男に対する扱いは酷く、食事もろくに与えられなかったという。祖父は製紙会社で働き、家族が四男の面倒を看ていた。四男は、結核が悪化して療養所に入り、大学を卒業する前に亡くなった。

その後、曽祖父の弟が亡くなったが、約束は反故にされ、祖父は土地を借りることとなった。

オイラの名前は父がつけたのだが、その一字がこの四男の名前の一字と同じ読み(漢字は異なる)だったので、祖父が反対したそうだ。結核で亡くなった人と同じ読みの名前を息子につけるとは何ごとだ!というのが祖父の主張だったが、父は頑として譲らず、結局、そのままの名前となった。父が病気になり、オイラが介護していた時期があったが、そのときもこの四男の話をよくしていた。



当時、東京で療養所といったらK市なので、上記の人たちが亡くなったのも、ここだったと考えられる。


オペラもそうだが、西洋音楽はもともと教会音楽から発生している。それもあってか、妹が超常体験をするようになったのは、ベル・カント唱法がちゃんとできるようになってからだった。

後頭部の首の上の方にある「くぼみ」を「盆の窪」という。この中心が氣功でいう「瘂門」なのだが、この辺りが「開く」ことがないと、声をうまく響かせることができないのだ。



ここって、スピリチュアルの世界では「スピリチュアル・ゲート」と呼ばれていて、あっちの世界との交信する部分なんだそうだ。

オペラを歌うために、声をうまく響かせると、「スピリチュアル・ゲート」が開いてしまう。それを結核患者の魂のよりどころであった教会の礼拝堂でやっているわけだから、記憶喪失になってもオカシクナイってことなんだろうな。

2018.07.18 | 心霊 | トラックバック(0) | コメント(2) |

恐ろしい話ですね。

ちなみに、うちも結核家系です。
おばあちゃんの母と弟が結核で亡くなり、
父も結核にり患したことが。
気管支が弱いので、気をつけるようにいつも言われています。
無理しなかったら、元気ですけど(^_-)-☆

2018.07.19 21:30 URL | cha-cha #- [ 編集 ]

父の家族は、結核患者といっしょに暮していても発病しなかったので、結核に強いのかな?

結核菌に感染しても、かならずしも発病せず、免疫=抵抗力ができるので(ツベルクリン反応での陽性)、そっちの方だったのかもしれません。

2018.07.19 22:53 URL | 王子のきつね #NVCdQGYY [ 編集 ]












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